無言でドアを開け、天才外科医は大股で書斎へと引き篭もる。
予定よりもはるかに早い帰宅に、今回は留守番であった少女は驚き、何事かと声をかけようとしたが、その勢いに何もいえなかった。
触れるもの総てを切り裂く、孤高の鋭さを纏いながらも、その見えぬ傷口からは紅い血液が静かに流れる。
人知れず傷つき、それを見せようともしないのは、天才ゆえのプライドであったか。
少女は小さく息をつき、その大地色の瞳を伏せる。
天才外科医が予定よりも早く帰宅する事の意味。
痛いほど、知っている。
それは、患者の死を。
難知性心疾患の少女の病室から、突如聞こえてきたのは、弦楽器の旋律。
演奏者は、白銀の長い髪を揺らす黒い医者。
その力強い音色に混じるように、一定音が長く鳴っていた。
波形がフラットになったことを示す機械音が、いつまでも。
両親は泣き崩れ、天才外科医はその演奏者の胸倉を掴み上げる。
演奏者は、死神の化身。
俺は、演奏をしていただけだぜ。と無機質な声で嘯いた。
『なあ、ブラック・ジャック』
呼び止めた死神は、振り返りもせずに、闇と同質の声で言葉を紡ぐ。
『切られるのが怖い人間も、中にはいる』
『あの児は生まれてから、総てが生命維持の下の管理されてきた』
『親の言いつけを、いつも守ってきたって言うじゃない』
『でも、死ぬ瞬間ぐらい、自分で自由に決めたかったのさ』
「最初で最後の我侭を、お前が聞いたって言うのかッ!」
みっともないぐらい。大声で叫ぶ。感情の塊を飛ばすように。
ぶつけられても、奴は揺るがない。
だって、奴は、死神の化身。
『バイオリンの生演奏を聞いてみたい、てさ。そんな些細な事だって、あの児は胸にしまっていたんだぜ』
「この手術で、準無菌室に移れるはずだったんだッ!」
『せいぜい一ヶ月だろ?その後は?永らえる恐怖を、あの児はいつまで味あわなけりゃならなかった?』
「治療法が見つかるかもしれないだろ…!」
『そんな楽観視、ブラックジャック先生らしくないじゃない』
生きる事を望む両親。
生き永らえる恐怖に怯える、患児。
生きる事を拒否した時、どんな医者でも無力となる。
唯一人、死神の化身だけが。
「ふざけるなッ!貴様がしている事は、ただの人殺しだッ!!」
自分の声に驚き、天才外科医は呆然とした。
一瞬、自分のおかれている状況が分からなくなる。
そこが自宅の書斎である事に気づき、天才外科医は大きく息を吐いた。
首筋に、じっとりと不快な汗をかいている。
窓の外をみれば、深夜にちかいであろうことを、教えてくれた。
静かに凪ぐ海風と、波の音。と。
微かに聞こえるメロディーに、天才外科医はぎくりとした。
病室から聞こえた、あの忌々しい弦楽器の音を思い出したからだ。
だが、よく聞けば、それは肉声で、鼻歌のように、途切れ、途切れ、風に流れてくる。
少女の声だった。
暦の上では初夏であるからか、外へ出ても寒くは無い。
寧ろ、海風が心地よく、天才外科医の不快な汗も、ひいてゆく。
そして、今度ははっきりと、少女の歌声が、闇夜に美しく流れ聞こえた。
ゆりかごの うたを カナリヤが 歌うよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
ゆりかごの うえに びわの実が ゆれるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
それは、聞き覚えのある歌であった。
遠い記憶。それは、まだ幼かった時分に、聞かされたような。
「あえ?ちぇんちぇい!」
歌が途切れ、少女がこちらを振り返る。
嬉しそうに満面に笑みを浮かべて、少女は「おかえりなちゃい」と言ってくれた。「お風呂にすゆ?あ、辰巳先生が、美味しい冷酒をくれたのよさ。ちぇんちぇい、飲む?」
「…ああ、もらおうか」
帰宅して数時間がたっていたというのに、何も言わずに寄り添うような気遣いをする少女。
それは彼女の本能であり、本質であるように思う。
「ピノコ」
「なあに?」
「さっきの、歌」
「あ、あえ?」
天才外科医の少ない言葉でも、少女はすぐに答えた。「子守歌なんらって!テレビでやってたのよさ。きえいな歌だな〜と思って、覚えたてほやほやらの」
「…そうか」
「綺麗な歌を、いっぱい歌えるように、ピノコ、なりたいのよさ」
嬉しそうに語る少女は、生命力に満ちている。
その意思の力は、医者がどうこうできるのではない。
”生きたい”という思いが奇跡を生み、そして力となるのだ。
「もう一度、聞いてみたいな」
「子守唄?いいよー」
少女は、綺麗な声で歌いだす。
生命に満ちた、力強さで。
ゆりかごの つなを 木ねずみが ゆするよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
ゆりかごの 夢に 黄色い月が かかるよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
-終-
2011.6.19 コウ