いつの間にかの初夏


   病院から一歩外に出ると、既に夏であった。
 回数を要する難易度の高い術式は、理論上は可能だが技術として不可能にちかいとされていた。
 それを臆することなく実行し、更に患者の容態の安定は元より、六割以上の回復、更に自力で起き上がれるまでに身体機能を向上させられた事に病院への賞賛と評価は驚くほどあがったが、この奇跡と呼ぶにも相応しい出来事の裏に、天才外科医の腕であると陰で囁かれるが、公式に表立って言われることはなかった。

「あっちゅい〜よのさあ〜」
 薄手のニットカーデガンを脱ぎながら、少女は大声で訴えた。
 思えば、この病院を訪れたときは入梅前の肌寒さであったのに。
 患者の容態が安定したのを確認し、病院側に引き継いだところで、既に二ヶ月が経過していたのだ。季節が移り変わるには、十分な時間である。
「ちぇんちぇい、あちゅい」
 真っ赤な顔をしながら、少女は長袖ブラウスの裾を捲くる。
   対して、傍らで歩む天才外科医は表情一つ変えず、黒衣と称してもおかしくない、漆黒のコートにスーツ。この時期には、見ているだけで暑苦しい変人の印象を拭えないが、それを指摘するものも誰もいない。
 いや、そうでもない。
「ちぇんちぇい、あちゅくるしい…」
 恨めしそうに見上げてくる少女に、天才外科医は「そうか?」と知らぬフリで答える。
「夏は見た目もだいじなのよさ!ちぇんちぇい、コートぐやい、ぬいでくらちゃい!」
「何がくさいって?」
「コート!ぬいれー!」
 頬を膨らませて、少女は訴えた。
 全身黒尽くめの無表情な男に、そんな訴えをするのは、世界広しと言えど、この助手の少女以外にはいるはずもない。
 そのような訴えを無視するかと思えば、天才外科医はため息を一つ落として「わかった、わかった」と答える。
 そして、するりとコートを脱いで手に持てば、少女はニコリとして手を腰に当てた。
「うん、すずちちょうで、いいよー」
「…そいつは、どうも」
 僅かに口元を緩ませて、天才外科医は少女を見下ろす。
 少女は眩しいぐらいの笑顔を見せてから、前方に広がる景色を指差した。
 青い水平線から立ち上る、真っ白な雲は、色鮮やかに、強烈に、キラキラと輝いて見える。
「うみらねー、ちぇんちぇい」
「…寄っていくか?」
「いいのー!?」
 わーい!と文字通りに飛び上がって、少女は天才外科医の手を握った。
「はやく!はやくいきまちょー!ちぇんちぇい!」
 急かすように、少女は天才外科医の手を引っ張る。
 その手に導かれるように、天才外科医も歩き出す。
 二人は小走りに、海原へと歩き出していた。
 共に、手を、つないだまま。

 

-終-

2012.8.4 コウ