お月見


 夕食が済んだ岬の診療所は、夜の暗さそのままに闇に沈んでいる。
 いつもなら、暖かな団欒の光が包む時間だと言うのに、今のそこは、テラス部分のガラス扉が大きく開かれていた。
 何も知らぬ者がみれば、無用心な空き家な佇まいにもみえただろう。
 だが、そこは彼の有名な無免許でありながら天才と謳われる外科医の診療所であり、無人と思われた室内からは、可愛いらしい少女の歌声が微かに聞こえていた。

「う〜ちゃぎ〜うちゃぎ〜なにみてはねゆ〜」

 少々音感のずれた歌声と共にテラスに現れた少女は、手に山と詰まれた団子の乗せた盆を持っていた。
 テラスにある丸テーブルの上には、花瓶に生けられたススキも、風にゆれている。
 なるほど。空を見上げれば分かるとおり、今日は見事な十五夜の月…満月なのだった。
「ちぇんちぇい、早く〜早く〜」
 テーブルの脇の椅子に座り、少女はさっそく、団子を一つ口の中に放りこんだ。
「うん、おいちい!」
「わざわざ、家の電気を消すことはないだろう」
 ガラスコップを片手に天才外科医は現れた。
 手に持つカップは、刈穂の吟醸カップ。端麗辛口のそれで、どうやら晩酌するつもりだったらしい。
「らって、ほら、きえいな月らよ」
 お団子を頬ばりながら、少女は空を見るように促した。
「お前は”月より団子”か」
「ちぇんちぇいは、”月よりおちゃけ”でちょ」
 少しだけ唇を尖らせてから、少女は、こくんと咀嚼物を飲み込むと、改めて空を見上げる。
 まるで銀色のコインを置いたかのように、輝く月。
 その輝きは思いのほか強く、夜空は、黒と言うよりも濃紺に塗り替えられたようだった。
「月って不思議…」
 見上げながら、少女はぽつりと呟いた。「まゆくなったり、細くなったり…ころころと形を変えちゃうの…どれもきえいらけど、同じ月とは思えない…」
「月の満ち欠けは、科学的に説明出来る」天才外科医は言った。「(注.読まなくてもいいです)日没後に西の空に見える月は細長いが、やがて太くなり、同じような時刻に、今度は南の空の高いところで光る。さらにしばらくすると東の空に見えるようになり、どんどん月は丸くなる。日の入りと同時に東の地平線からのぼるようになると、月はほぼ丸い形となるが、さらに何日かすると、日没後しばらくは月は見えなくなる。これらの変化を「月の満ち欠け」とよぶが、満ち欠けによって形を変える月には、それぞれのよび名があるんだ。新月の朔からはじまり、既朔、三日月、上弦、十三夜、小望月、幾望、満月を望月、十六夜、既望、立待月、居待月、寝待月、臥待月、更待月、下弦、晦」
「ちぇんちぇい、すごい〜!!!」
 ぱちぱちぱち!小さな手を力いっぱい叩きながら、少女は尊敬の眼差しで天才外科医を見つめていた。
「すごい!科学館の学芸員さんみたい〜!!」
「…まあ、常識だ」
 表情を崩さずに、彼はカップ酒に口をつける。
「今度かや、分からないことは、ちぇんちぇんに聞こ!」
「…そうかい」

 やはり、表情を崩さずに、天才外科医は答える。
 しかしほんのり頬が赤いのは、アルコールのせいか、或いは。






-終-

2010.11.21 コウ