テディ・ベア


「じゃあ、この子は、アランにすゆ」



 怒りの篭められた低い少女の声に、天才外科医は内心を凍らせる。
 だが、そんな内情は表情には出すことは、決してなかった。

 天才外科医が差し出した、茶色の毛足の長い熊のヌイグルミは、今回の仕事先で購入したものだ。
 元々は購入予定ではなかったのだが、予定よりも仕事が長引いてしまったのだ。
 そこで、留守番をしていた少女への侘びも兼ねた土産物だった。
 いや、だが、しかし。
 そもそも、天才外科医の仕事の性質を考えると、予定通りには事が運ばないのは、致し方がないと言う物。
 難治性疾病の治療は、ただでさえデータが少ない。
 それを、手術という方法をとり、限りなく完治に近い状態にまで、天才と呼ばれるこの外科医は妥協しないのだ。
 だから、なの、だが。
 勿論、少女はそのことを十分に承知している。
 承知はしているが、心待ちにしていた予定が外れてしまった落胆だとか、寂しいだとかいう本音を、やはり少女は表情に出さない。
 出さない代わりに、それらを怒りに変換して、あえてぶつけるのだ。
 何故なら、涙を見せることは、彼を困惑させる事でしかない事を、少女は十二分に理解していた。
「…アラン…?」
 自分が差し出したヌイグルミにつけられたであろう名前を、天才外科医は復唱した。「お前、人形に名前をつけているのか」
「人形じゃなくて、”テディ・ベア”」
少女は少しだけ唇を尖らせたまま、澄ました顔で答えた。「ちぇんちぇいが初めて買って着てくれたのはチャーリーれ、ロンドン生まれ」
「………。」
「二番目が、ウィルスンれ、ウィンチェスター州」
「…………。」
「ちゅぎが、ロイロットれ、シカゴ。そんれ、ワトソンがカルカッタ。ウィギンスがカンクン」
「…ピノコ…」
「んれ、次が…」
「もういい、分かった」
 ため息混じりに、天才外科医は言葉を遮った。
「ちぇんちぇい、わゆいと思ったや、いっつもテディ・ベアを買ってくゆんだもん」
 少女はニッコリと笑って見せた。「だかや…ていう訳じゃないけろ、ちゃんとおぼえてゆ」
「…そうか」
 恐るべき記憶力というか、執念深いのだろうか。
 まさか自分の土産を通し、そんな思い出まで背負っているとは、可愛い顔をした熊の人形が、少し怖い存在に思えてくるような気がする。
 もう、熊のヌイグルミを買うのはやめよう。
 そう天才外科医は心に決めたが、勿論、表情にはあらわれない。
 ただ。
 いかに天才と言えども、彼は少し思い違いをしていることを、助手の少女は見抜いていた。
「ちぇんちぇい、あのね」
 少女の笑顔に曇りはない。それは、天才外科医が好む表情の一つだ。
「この子たちは、ちゃんちぇいが助けた患者さんの数でもあるんだよー」
 言葉を、少女は素直に落とす。
 落とされた言葉を受け止め、天才外科医は困惑した心持で少女の眼を見返していた。
 その困惑は、表情にはあらわれない。
 でも、だけど。
 壁一面を埋め尽くすほどの熊の人形。
 そういえば、少女はこの人形の手入れも欠かさない。丁寧に布で磨き、丁寧に外気浴もさせ。
 ただ単に、子どもは人形が好きだな、ぐらいにしか感想を持っていなかった天才外科医は、心の中で白旗をあげた。
 参った。まったく完敗だ。
 そう思いながらも表情は崩さなかったが、少女は「だから」と言って、たった今”アラン”と命名した、アテネ出身のテディ・ベアを優しく抱き締める。
「もう、おこってないよのさ」
 人形の長い毛並みに唇を寄せるそれは、まるでアテネの死に掛けていた青年へ贈る口付けのようだった。
 勿論、アテネの青年の容態は回復傾向になったから、天才外科医はここにいる。
 少女は笑ってくれているのだ。
 ありがとう。
 そう天才外科医は思いながらも、その言葉は無言の笑みにのせられて、告げられる事はない。

 だけど、少女には、伝わっているのだ。




-終-

2010.10.06