それは心に引っかかる、小さな棘のような、違和感だった。 気に留めるべきであった筈。 だが、それなのに。 そう。それを忘れさせる術を、彼はよく知っていた。 「エドワード、君のお陰で助かったよ。さすが、臨床薬理の鬼才だな」 目の前で笑うのは、影三。 グレーのビジネススーツを着こなす彼は、善良なビジネスマンにうつる。 彼と共に、私は彼のオフィスへと誘われる。 ぱたん。 ドアが閉まると同時に、彼が手に持っていた書類ケースが床へと落ちる。 「…エドワード…」 甘えるように、彼は私に抱きついてきた。 胸のあたりで顔を擦り付ける様は、子供のようだった。 「…疲れたよ、エドワード」 見上げてくる表情は、無防備で儚い。 その表情を見つめていると、彼は私の頬に手を伸ばす。 「…ずっと、一緒にいてくれるんだろう?」 不安そうな、声。 そんな音を出されたら、ぎゅっと胸を締め付けられる。 「当然だろう」 私は彼の顔を覗き込む。「ずっと一緒にいる…愛してる、影三」 「俺も、愛してる…」 重なり合う、唇。 愛しい人間との、満たされる行為の筈なのに、私の奥底は何故か冷え切ったまま。 ■Intersection 1 ■
「じゃあ、何かあったら連絡をしろよ」 「分かりました」 ソファーに深々と座る男性二人に、影三は頭を下げた。 教授の応接室から出ると、研究室の先輩が「どうだった」と尋ねてくる。 だが、影三にはその先輩を喜ばすことができる情報など、得られなかった。 黙って頭を横に振ると、先輩は「そうか」と言ってため息を落とす。 「じゃあ、俺は教授に知らせてくるから、お前は帰れ」 命令口調で告げると、先輩は暗い廊下をバタバタと入り去った。 影三は廊下に無造作に置いておいたナップザックを担ぐと、やはり暗い廊下を歩き出す。 ドクター・ジョルジュが失踪して、一週間が経った。 学会からの帰り。最後に会話をしたのが、影三だったらしい。 公衆電話から、いつものように、ご飯を食べたのか、だの、ちゃんと睡眠をとっているのか、だの。 あんまり口うるさいので、生返事を返して早々に会話を切り上げてしまったのだ。 その行動を、今は誰よりも悔やんでいる。 彼の失踪原因に心当たりがなく、警察は事件に巻き込まれた可能性があると、言っていた。 ”邪険にするなよ、戻ったら、カレーライスでも何でも作るから” 最後に聞いた言葉。それはいつもの彼の言葉。 変わったことはないかと聞かれても、いつもの通りだったと答えるしかない。 だからこそ、不安が、募る。 歩きなれた道を、足早に進む。 メインストリートから一本外れた道。暗い通りは人通りが少なく、影三のような日本人は犯罪に巻き込まれやすい場所。 いつもジョルジュが心配している道だった。 商業地区の裏手にあたるそこは、暗く高いビルが立ち並び、左手側には高いフェンスが張り巡らされている。 前後を塞がれれば、逃げ道のない通りなのだ。 そう、今のように、建物の陰から出てこられれば。 「…ハザマ カゲミツ…だな」 3人の白人と黒人に囲まれた。体格のいい連中で、二の腕に共通の刺青が見える。 影三は答えなかったが、キャップを被った色の濃い男が、ひゅう、と口笛を鳴らす。 「ジャップにしては、可愛い顔じゃん。女みてえ」 「そうかあ?」 「よせよ、ゲイの考えは、わかんねーよ」 近づいてくる男を正面に向かえ、影三はジリジリと後ずさる。 がしゃん。背にフェンスが当たった。追い詰められた…フリをして。 「逃げられねーよ、かわいこちゃん」 キャップの男が顔を近づけてくる、その距離を正確に測り伺いつつ、影三はナップザックを肩から下ろした。 刹那。 「ギャッ!!」 近づいてきた男の頭を鷲づかみ、力いっぱい頭突きを食らわす。 呆気にとられた白人の一人にナップザックを投げつけるた。 見事に顔面に命中するのを見ずに、影三は素早く走って向かい側の建物の壁に背を預けた。 そして、足元に転がっていた手ごろな角材を拾いあげる。 背をとられなかったら、三人ぐらいは凌げる自信があった。 それは、影三が見かけどおりの優男ではなく、少年時代にこの合衆国にきてから受けた、差別と陰惨な暴力への抵抗から身に着けた防衛術。 特に、幼少時から木刀を使用しての喧嘩を経験していたので、手ごろな角材は、影三の得意な武器となる。 「ジャップがッ!!」 猪突猛進ししかしらない拳などは、相手ではない。 角材の先でその手首を叩きつけると、バランスを崩した男の頚椎を容赦なく殴りつけた。 「ひ…いわあぁああ!」 白目を剥いて倒れる仲間を見て、最後の一人は白状にも一人駆け出していた。 角材を地面に転がすと、影三はため息をついた。 エドがいないだけで、こんなチンピラに絡まれるとは。 「さっさと帰るべきだな」 そう呟いて、ナップザックを拾い上げた時だった。 「悪いが、家に帰らなくてもいい」 ぎくりと、影三は体を強張らせる。 いつの間にか、すぐ横にダークスーツの男が立っていたのだ。 隙のない男は無言で自分を見下ろしている。 その威圧感に、影三は体の自由を奪われたかのように、動くことができなかった。 冷たい汗が、全身から噴出す。 にげろ、にげろ、にげろ。 本能が警鐘を鳴らしているが、足が竦んで動くことができない。 この男は、恐らく、プロの殺し……。 カチリという音がした。恐らく、銃の安全装置を外す音。 そう考えていると、首筋に銃口が押し付けられた。 ごくりと、思わず、生唾を飲み込む。 上下する咽喉に、銃口はぴくりとも動かない。 声も出せない影三に、男は実に冷酷に告げた。 「Goodbye through all eternity.Mr.Hazama」 (続)