微かに汚水の臭う路地は、忘れた頃に現れる間隔の長い街頭のせいで、暗闇のほうが圧倒的だ。
 その街頭に浮かび上がるのは、拳銃を持つ金髪の白人男性と、拳銃を突きつけられる黒髪の日中系の男。
 絶対的な力関係を表した構図のようなそれは、まるで、映画のワンシーンのように、完成され、美しくもあった。














■Intersection 2 ■

ひたりと、頚動脈に押しつけられた銃口が唸れば、確実に死ぬ。  身動き一つとることができない状況下であったにも関わらず、、影三は冷静に考えていた。  よくて、即死。下手をすれば、失血死。  恐らく”殺害”という行為を生業としているであろう、この男に隙などあるはずがない。  少しでも動けば、それは死に直結する。  この異常事態において彼が冷静であったのは、今までも生命の危機に直面したことが何度もあったからだった。  故に、本能が告げるのだ。  自分は、今、ここで確実に、殺される。  この裏路地で、ゴミのように。  そして死体は引き取り手がないまま、共同墓地へ。 「泣き叫ばないのか」  男の酷薄そうな声に、影三は唇を噛んだ。  叫んだところで、何かが変わるわけでもない。助けが来る筈もないのに。 「ふん」男はやはり抑揚のない声で言葉を続ける。「さすが…というべきか。だが、お前は私には関係ない。関係のない人間だ」  殺意の中の言葉に、奇妙な単語が入り混じる。  意味を考えようとするが、絶対的に少ない情報の中では、推察も無駄に終わる。  死を、覚悟した時。まったくの第三者の声が、二人の舞台に割って出た。 「オズ、よすんだ。もう、良いだろう」  聞き覚えのあるような声だった。穏やかで、優しげな。  男はオズと呼ばれ、影三に銃口を押し当てたまま顔をそちらへ向ける。  殺意は未だに消えていない。 「…貴様、何故…」 「君を止めに来た」  第三者は、静かに歩み寄ってきた。  それを確かめようと、影三は硬直した体を動かそうとするが、銃口がその動きを無言で制圧する。  この男の声は、確かに動揺していた。  拳銃を握る手は、微塵もそれを感じさせないが。 「君に、彼を殺すことはできない」  第三者は言った。それは哀れみを慈しむような、優しい声で。「君も、おかしいと思っているのだろう?ここで彼を殺せば、恐らく一生苦しむことになる」 「ミスターのご命令は、絶対だ」  抑揚のない、機械仕掛けの声。「私の任務は、この男を殺すこと」 「殺してはいけない。彼を見ろ、君は」第三者は言った。「影三の額に銃弾をめり込ませることができるのか」  びくりと、銃口が震える。  それは、プロにあるまじき、行動。  だが。 「これが、私の任務だ」  同じ言葉を繰り返す。だが今は、それにすがる様な印象すら受ける、その声色。 「例えそれが奴からの命令だとして、君は、この世界を正そうとは思わないか」  縋る手を追い払おうとする、第三者の言葉は、どこまでも穏やかで。 「私には、ミスターの命令だけが、絶対だ」 「知っている。だが、狂った世界の中で、君は影三が狂っているのだけを、見続けることができるのか」 「任務であれば」 「嘘を吐くな」  第三者の手が、オズの握る拳銃にかけられた。  その銃口は静かに地面へと向く。驚くほど、呆気なく。  影三は詰めていた息を、深く、深く、吐き出した。  視線はそのまま、地面を見つめている。  コンクリートの上に、革靴と、布製のくたびれたスニーカーが見えた。 「今は、退いてくれ、オズワルド」  長い、沈黙があった。  それは重苦しく、それは永遠に続くような。  だが。  第三者の言葉に、革靴が踵を返し、遠ざかっていく。  殺意が消えた事に、影三は一先ず安堵した。  それでも、極度の緊張下におかれた体は、強張ってしまったかのように、すぐには動かすことができなかった。 「…大丈夫かい?…」  優しい声。大きな手が肩にかけられる。フランス訛のある英語だった。  それは、どこかで聞いたことのあるような。 「だ、いじょうぶです」  体をなんとか動かして、影三は顔をあげて第三者を見上げた。「…ありがとうござい……!」  見上げ、そしてその人物を認識した瞬間、世界の音が消える。  優しい声、フランス訛のある英語。  そう、それはどこかで聞いたことがあるようだった。  いや、毎日、聞いていた。  北米の公用語はフランス語と英語。  母親がフランス人であったから、フランス語の方が馴染みが深いのだ、と。 「…エド…?」  思わず口からもれ出た言葉に、影三自身が驚いた。  目の前の人物。  灰銀というよりも、砂色に近い金髪、碧眼もミルクが一滴交じり合ったような柔らかな色。  二の腕は太く、その大きな手も傷だらけで労働者のそれだ。  恰幅の良いと表現してしまう体格に、砂色の口ひげを蓄えた目の前にいる男性は、 影三が呼んでしまった人物…現在行方不明とされている『ドクター・エドワード・ジョルジュ』とはあまり、似ていない。  だが、似ていると思う。  物理的なものでなく、声や雰囲気や温かさが、その眼差しが。  多くの時間を共にしていた影三でしか分からないような、その魂の色が、酷似していたのだ。 「…その、何から話せば、信じてもらえるかな…」  他人と間違えられたにも関わらず、男は苦笑しながらも、言葉を告げた。 「私の名前は、エドワード・ジョルジュ。カナダで農牧場を営んでいる、平凡な酪農家だよ」         例えば、有名な童話にある話。  我侭な王子に”うわばみ”を描いてほしいと頼まれるが、何度描き直しても、王子の気に入る絵を描く事が出来ない。  いい加減、うんざりした彼は、箱の絵を描いた。  その中に王子が望む”うわばみ”が入っていると。  王子は、大層喜んだ。 「ぼくは、こんなのを望んでいたんだ」  細かい台詞や筋は忘れたが、この童話は量子力学の多重世界論にある”シュレディンガーの猫”を髣髴とさせる。箱の中身は、開けて見なければわからない。  その箱を見た瞬間、世界は”箱を開けた世界”と”箱を開けていない世界”が存在することとなる。  SFやファンタジーといった世界では”パラレルワールド”と呼ばれるそれは、量子力学の世界では常識として存在する。 「つまり、貴方は、また別世界からいらした…ということですか」  影三は説明を聞きながら、その聡明と呼ばれる頭脳で問題を齟齬する。  いくら理論上存在すると言っても、実際にその世界を行き来できるかと言えば、それは別の方程式が必要だ。 ワームホール論など、時間、空間を行き来することは可能とは言われている。だが、それが現実化させるには、また別の理論が必要であり、現在それは存在していない。  別の世界から来たなどと、荒唐無稽な話だ。  精神障害者の妄想とも取れる話だ。そんな症例は、医学界には山ほど存在する。  だが、それでも、不思議と目の前の人物の説明を納得する自分もいた。  研究者として、実践が不可能であると否定するのだが、それでも、目の前のジョルジュは、嘘をついていないと、分かる。そう、何故か、分かるのだ。  二人は、ジョルジュのアパートに来ていた。  小奇麗に片付いたその部屋の主は、未だに帰ってこない。  もう一人のジョルジュが「勝手に使用しても構わないかな」と笑って、夕食を作ってくれたのだ。  それは、野菜のたっぷり入った、クリームシチューとハンバーグ。  影三の好物だった。 「美味しいかい?」  久しぶりの温かい食事に、かきこむように食べていると、ジョルジュが笑ってたずねてくる。 「おいしいです」  ハンバーグを咀嚼しながら、辛うじて答えると、ジョルジュは嬉しそうに眼を細めた。 「…そう言ってくれると、嬉しいよ」  それは嬉しそうだが、淋しそうな響にも聞こえた。 ■■  薄暗闇に沈む部屋は、周りの高層ビルよりも抜きん出て高いホテルの最上階だった。  小さなダイヤモンドを無造作にばら撒いたかのような、その夜景を見下ろしながら、影三は眉間に皺を寄せる。それは、背後の男の報告を耳にしたからだ。 「…エドワードが?」  影三は、男を見ずに思わず呟いた。そして、それが失敗であったと、唇を噛む。  男に気付かれぬように。 「そうだ。お前のエドワードは、向こう側の”間 影三”を救いに行った。お前ではなく、向こうの、な」 「…あの男は、ただの頭の悪い農夫だ。善悪の判断という単純明快な思想で判断する」 「だが、目障りだ」 「目障り?」  影三は振向いた。細める眼光は夜の月よりも寒々としているようだった。「たった一人の男を押さえ込む事ですら、困難なのか。まっさらな平坦な道しか歩けないとは、な」 「小石が崩落の原因となることもある」 「ふん」  影三は、もう一度夜景に向き直る。だが視線は、眼下ではなく地平線を見つめていた。 「安心しろ。どうしても邪魔なら、俺が殺す。俺の言いつけを守らないならな」 「自らの手でとは…ロマンチストだな」  男の言葉に、影三はくっくと咽喉を鳴らして笑っていた。「ロマン…ね。じゃあ、エドワードを殺して、俺はその首にキスでもしなけりゃならないな」  こんこんこん。  遠慮がちなノックが合図と成り、男の体は煙のように掻き消える。  後には、暗闇の中に影三だけが。 「どうしたんだ、明かりも点けずに」 「エドワード…」  入室してきたジョルジュに、影三はするりと抱きついた。  その自然な動作に、ぎくりと体を強張らせながらも、遠慮がちに背中に手を回す。 「どうし…」 「怖い」 「え?」 「怖いんだ、エドワード」縋るように、影三は訴える。「君が俺の傍からいなくなりそうで、怖い…俺は、君がいなくなったら、どうしたらいいのか、分からない」 「影三…」 「俺には、君が必要なんだ…」  甘える彼に、ジョルジュは静かに口付ける。  そして、請われるままに、彼をベッドルームまで運んだ。  愛しい、愛しい彼の肌に触れ、そして溺れてゆく。  何度も何度もその名前を呼ぶと、彼は自分の名前を呼んでくれる。 「愛してる…エドワード…」と。  熱い昂ぶりに、何も考えられなくなる。  それなのに、どこか頭の片隅にある違和感が、拭えない。  何かが、違う。どこかにズレがある。  そう、たとえば。  …エド…   そう、自分を呼んでくれたのは、誰だっけ。 (続)