まただ。
 深夜の大学院。その古い建造物の奥、コの字型に校舎が囲む形で存在する中庭がある。
 この時間となると、誰もそんな場所に出向くものはいない。
 だが、この場所から、時折、弦楽器の音色が聞こえて来る。
 深夜。学校。楽器の音。
 小学生であれば、迷わず学校の怪談に加えるだろうその音色は、残念ながら、生きている人間が奏でていた。
 缶コーヒーを購入しようと自動販売機まで来たとき、その音色が微かに耳に届いた。
 まただ。
 大して驚きもせず、彼は音色の根源へと足を運ぶ。
 深夜の中庭。
 青白い半分の月が、彼を照らし出す。
 闇夜に浮かぶ灰銀の髪を僅かに振り乱し、一心不乱にバイオリンをかき鳴らす彼は、普段の温厚な笑顔とは対照的に、厳しくも、美しいと思った。
 まるで、この世のものではないみたい。
 彼の奏でる音色は、忙しなくて早い。
 音楽のことは一つも分からないが、まるで二人の人間による演奏かのように、多彩で重厚だ。 
 ラ・カンパネラ。
 リストのピアノ曲が有名だが、パガニーニによるこの曲は超絶技巧を要するとあって、安易に奏でられる曲ではない、
 そんなことを、影三は当然しらないが、彼の演奏にいつの間にか引き込まれていたのは、やはり彼が医学部に進むのを惜しまれた程の演奏者だったからだろう。
 彼は、論文に詰まると、バイオリンを弾いて気分転換をする。
 だがその癖は、分別ある時間になされ、こんな真夜中にするとは、珍しい。
 彼の演奏する姿と、奏でられる弦楽器の音が、酷く激しいと思った。
 高音域の音が鼓膜を震わせ、まるで耳から犯されているよう。
 低音から高音まで一気に駆け上がるストリングスのようなそれは、背筋を撫でられたかのように、何かが一気に駆け上がるような気がする。
「影三…?」
 気がつくと、驚いたような顔で彼が駆け寄ってきた。
「…あ…」
 我に返り、影三は慌てて立ち上がろうとするが、先ほどの演奏で力が抜けて座り込んでしまった体は、なかなか言うことをきかない。
「大丈夫か?」
 心配そうに影三の頬に彼の手が触れたとき、
「ん…」
ぴくりと微かに肌を震わせて、眉根を寄せた。息が詰まり、声が抜ける。
ぎくりとしたのは、彼の方だった。
その表情は、闇夜にも分かるほど、艶めいたものだったから。
「エド」それでも、影三は小さく息を吐き、言った。「あなたの、せいですよ」
「え、あ、すまない」
 素直に、彼は謝った。



  









ラ・カンパネラ

2010.7.14 2011.7.16ブログより再掲載