まるで、ラブレターみたいね、と言われた。




もう、この国にいる必要もないな。
大学構内にある芝生に寝そべり、明るい空を見上げながら、エドワードはため息を吐いた。
このまま、この国に留まっても良かった。
だが、ここじゃなくても、良いだろう。
この国は、自分の出身地であるということ以外に、愛着だってありはしない。
少し離れた場所から、自分の名前をフルネームで呼ぶ学生がいる。
ああ、まただ。
自分は、この大学で、すこし名前が売れすぎた。それが、煩わしい。
臨床薬理の神と呼ばれる老博士が、ご丁寧にも学会で言ってくれた『鬼才』の冠は、その実、老博士も自分が神と呼ばれることに飽き飽きしていたからではないかと、推測していた。
まったく、くえないジイサンだ。
エドワードは、起き上がって、傍らにおいてあるノートを手にした。
そして、慎重な手つきで、それを開く。
白紙のノートに丁寧に挟まっていたのは雑誌から切り離した論文だった。
あの老博士が「お詫びに、あげよう」と言ってよこしたものだった。
それは、臓器移植に関する、米国の医科大学院の卒論だった。
何度も繰り返し読んでいたため、内容はすっかり暗記している。
それでも、エドワードは日に何度もそれを取り出しては、活字を目で追っていた。
「ジョルジュくん」
突然、近い場所から名前を呼ばれて、エドワードは振り向いた。
そこには、先月まで交際していた、エララが、手を振っていた。
「何してるの?」
遠慮なく、彼女はエドワードの手元を覗き込んでくる。
そして、それが論文だと分かると、エララは可笑しそうに噴出した。
「また、それ」
「……そう、これ」
ノートを閉じ、その論文をしまいこむのを見て、エララはやはり愉快そうに告げた。
「まるで、ラブレターみたいね」
「は?」
彼女の言葉が、一瞬、理解できなかった。
論文とラブレター。これほどかけ離れた文章媒体を、例えに出すだろうか。
「ラブレターみたいに、丁寧な扱い、って意味よ」
困惑するエドワードに、彼女は言った。「気になるのは、その内容?それとも執筆者?」
「両方かな」
即答した。
嘘だ。臓器移植は、それほど興味はない。興味を惹かれたのは、執筆者の方だ。
日本人である学生が、これを書いたという。
日本人の知り合いはいないため、日本人がどういう風貌であるかは、少し想像しにくかった。
同じ研究室の、中国人留学生のような感じなのだろうか。





まるで、ラブレターみたいね、と言われた。


ならば、この時にすでに恋に落ちていたのだろうか。
顔もしらぬ、この執筆者に。



◇◇◇


 メインストリートからかなりはずれた、名もない裏道は街頭もなく暗闇の密室のようだ。
どれだけ暴力を振るう肉音が響いても、それを受ける者の呻き声が漏れ出ても、誰の耳にも入らない。
数人による苛烈な暴力は、この場で一番小柄な彼にのみ、叩きつけられていた。
両脇を背後から羽交い絞めにされ、避けることのできない拳を、一身に受けている。
「素直に出せばよかったんだよ」
ぐったりと頭を垂れる、小柄な…まるで少年のような彼の上着のポケットをまさぐり、
男は目当ての物を探し当てた。
それは、黒色の財布であった。
男はその財布から紙幣を抜き出すと、そのまま財布を放り投げた。
「もう一個、あるんだろお?」
男は、彼の顎に手をかけ、顔を持ち上げる。「カードが入ってないじゃん」
「……それは、ここに…」
呻くように呟いてみせると、男は羽交い絞めを解くように、背後の男に目配せをする。
刹那。
両腕の拘束が緩むと同時に、彼は背後の男に肘鉄を食らわした。
それは見事に、人体急所にはいり、男は呻きながら、地面に蹲る。
だが彼も受けた暴力の爪痕が体力を削ぎ、思わず体がよろめいた。
瞬間、彼の体は蹴り飛ばされた。
「…ッぐぁ!」
「カゲミツ」蹴り飛ばした男は、面白くなさそうに蹲る彼の顔を踏みつけた、「反抗も大概にしとけよ。そうそう、来週は、ジェームスが帰ってくるんだぜ…嬉しいだろう?お前のロストバージンのお相手だもんな」
「…だまれ…下種のくせに…!」
悔しそうに彼が睨みつけるのを見て、男は楽しそうに言葉を続ける。
「ジェームスからはにげられねーよ。お前、お気に入りだからな」
「黙れッ!!」
悔しい悲鳴が響いた時だった。
「そこで、何をしているんだッ!!」
遠くから、此方へ向かって駆け寄る男の姿が見えた。
男たちは慌てて、その場から走り出す。
地面に蹲る彼は、自分の頭を踏みつける存在がいなくなったので、起き上がり、走り出そうとした。
あれが警官であったなら、面倒なことになる。
だが、暴力を受けた体は、なかなか言う事をきかない。
そのうち、意識が、暗転した。


◇◇◇


エドワードが米国の医科大学院に移籍して、はじめにしたことは、例の論文の執筆者を探す事だった。
そして、それはあっさりと達成された。
間 影三。
スキップで入学した彼は、院生でありながら、まだ22歳そこそこであった。
いや、見た目は、東洋人独特の童顔さで、中学生ぐらいにしかみえなかった。
それは、エドワードが思い描いていた人物とは、まったくと言っていいほどの、予想外だった。
聡明であった彼は、話をすれば、その頭の回転の速さと、知識の豊富さに驚いた。
なんて人物が、この世にいるのだろう。
素直に感心する。
だが、彼を観察し、一つ気づいたことがある。
彼は生傷が多い。
それは、どうみても殴打された痕だろうに、彼はいつも「なんでもない」と曖昧な笑みで答えてた。
なんでもない、わけがない。
何も誰にも語らない彼に業を煮やし、エドワードは彼を尾行することにした。
他に方法が思いつかない。
ただ、怪我は大学構内でついたものではなさそうだから、つくとしたら、帰宅後だろう。
そう思いつつ、彼の後を追っていた、が、人ごみに紛れてしまうと、追跡が困難だった。
必死であたりを見回し、そして、走り回った。
その甲斐あって、彼を見つけだすことができたのだ。
「そこで、何をしているんだッ!!」


気を失った彼を、エドワードは抱き上げた。
ひどい、暴力の痕だった。
「間クン…」
意識のない彼の頬に、エドワードは思わず口付けた。

 影三は家庭で過ごした記憶が無い。
10歳にも満たない頃に、親の都合で合衆国へと連れてこられた。
白い肌のおじさんとおばさんは、影三を屋根裏部屋に住まわせた。
今思えば、破格の待遇であったと、いわざるを得ない。
影三は、それ以来、自分の親に会ったことはない。



◇◇◇


影三は、熱心に話しこんでいた。
自分の学術的興味のある研究課題や、その人の論文に対する疑問まで。
その人は、うんうんと優しく頷きながら、話を聴いてくれた。
こんなにも、語ったのは、初めてだったかもしれない。
「君は、実に優秀だな。もっと話が聞きたいよ」
細められる碧眼は、医師に相応しい優しさを持っていた。
もっと話したい。
そう思ったときだった。唐突に背後から腕を掴まれる。
その感触に、粟立った。体が硬直して動かせない。
「楽しそうだな、ジャック」
勝手につけられたあだ名で、影三は呼ばれた。
その名前を呼ぶ人間は、数人しかいない。
「…ジェームス…!」
搾り出すように名前を呼ぶと、ものすごい力で体を押さえつけられる。
抵抗する暇もなく、下半身を剥き出しにされ、後孔に濡れた指を押し込まれる。
その感覚に、影三は派を食いしばった。
「眼をあけろ」耳元で声が響く。「ドクタージョルジュが見てくれているんだぞ」
はッと眼を開き、視線だけで見上げた。
その先には、先程とは違う軽蔑した表情の、その人が、自分を見下ろしていた。
「お前は、俺のものだろ、ジャック」
忌まわしい言葉に、影三は思わず絶叫した。


眼が覚めると、柔らかな布団の中だった。
いつの間に帰ってきたのだろう…。
ぼんやりとした頭で考えつつ、影三は寝返りをうって、硬直した。
視界に映るのは、いつもの見慣れた部屋ではなかった。
いや、部屋には違いなかったが、几帳面に片付けられた室内は、自分の乱雑な部屋とは比べ物にならない。
ふと、ベッドから少し離れたところに長身の人影を認め、息を詰めた。
壁を背にし、腕を組んで椅子に座るその人影は、頭を下げているところから、眠っているのだろう。
闇に浮かぶ白髪から、老人かと思った。
だが。
そっとベッドを抜け出し、影三は素足で床に降り立った。
そして、眠るその人の顔を覗き込む。
「!」
声をあげそうになり、思わず口を手で押さえた。
ドクター・エドワード・ジョルジュ。
そこにいたのは、北米の最高峰の大学にて鬼才と呼ばれる人だった。
彼はすでに医学界でも有名で、一学生である影三ですら、名前を知っている。
そんな彼が、何故、ニューヨークの医科大学院に移籍したのかは、謎だったが。
憧れていたのだ。
彼は影三の卒論を気にいったt言ってくれ、何時間も話し込んだのだ。
一流の世界に身をおくドクターの話は、興味深く、ますます、憧れと尊敬の念がひろがっていったのだ。
だが。
影三は、そっとドアから出て、台所へと向かった。
几帳面に整頓された部屋は、居心地がよかった。
冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターの瓶に手をかけた時だった。
「間クン!」
寝室のドアが派手な音を立てて開き、ジョルジュが叫んだ。
影三はびくりと肩を振るわせる。
台所にいた影三をみつけ、ジョルジュは安堵の笑みを浮かべた。「よかった」と。
「あ、す、すみません」
瓶を置いて、影三は言葉を告げた。
  
「もう,起きても大丈夫なのかい」
優しい声色で、エドワードは話しかける。
彼は酷く、怯えた顔をしている。怖がらせたくはない。
一歩、歩み出ると、彼は僅かに後ずさり、彼の眼光が鋭く光る。
まるで、敵に構える、野生動物のように。
「お腹、すいていないかい」
「大丈夫です」
彼が答えると同時に、彼の胃がとっくに消化活動を終えたため、空っぽであることを主張する。
「何か、作るよ、料理は趣味なんだ」エドワードは言った。「なんだったら、バスを使うといいよ。もしくは、テレビを見ていてもいいから」
「テレビ…」
彼は指差した方を見て、驚いたようだった。「持っているんですか。さすが」
「もらい物だけどね」
彼がソファーにすわり、テレビ番組を眺めだしたのを見て、エドワードは料理をはじめた。
彼の頬には殴打された痕が一箇所だけあったが、体にはその倍以上の傷があった。
真新しい傷の他に、古傷も随分と目立っていた。
気を失った彼を自室に連れ込み、治療と言い訳をして、彼の衣服を脱がす。
色のついた肌に刻まれる、古傷、新しい傷。
先程、闇夜で行われてたリンチは、彼にとって日常なのだろうか。
だがそれも、不思議なはなしではない。
彼の持つ黄色の肌は、人種差別の格好の的だ。特に先の大戦で負けた彼らは、近年、高度な経済成長を遂げてきた。それを面白く思わない連中が、多くいる。
直接関係があるがずがないのに、彼は、その逆恨みや理不尽な暴力に耐えてきたのだろうか。
普段、大学院では彼はそんな素振りは見せない。
あの笑顔に総てを隠してしまっている。
だが。
先程の、剥き出しの敵意。
あれこそが、彼の本当の姿なのだろう。
傷つけられ、周りを警戒し、威嚇する。その姿が。
誰も、君を、助けなかったのか?

「いっただきます!」
ミートソースパスタとサラダを作り、彼にふるまった。
彼は、美味しいです。と、やはり笑って言う。
本心からの笑顔ではないのかもしれない、だが、その笑みが、エドワードの心に焼き付いて消えてくれない。
あの敵意剥き出しの眼が。
「今日は、もう遅いから、泊まるといい」
「いえ、迷惑はかけられません」
申し出を、彼はあっさりと断った。
「ダメだよ」エドワードは、彼の小さな手をとった。「また、さっきのような連中に絡まれたら、どうする」
手を掴むと、彼は途端に緊張したように体を強張らせた。
そして、慌ててエドワードの手を振り払うと、やはり笑って言う。
「大丈夫です。さっきは油断しただけで」
「そうは、見えなかった」
今度は、彼の肩を掴んだ。「彼らは、知り合いなのかい?もしかして、こんなことが今までも…」
「あなたに関係ないでしょう!」
鋭く彼が叫んだ。
表情は、敵意を丸出しにした険しいもの、だけど、その鳶色の眼は先ほどの迫力がない。
だから、分かってしまった。
「心配、なだけだよ」
彼の眼は、怯えている。
「今、君を独りで帰しても、気がきじゃない」
君を、私は、助けたい。
「全部話して…とは言わないよ。でも、あんな場面に出くわしたら、単純に君が心配なだけなんだよ」
   
 ”助けてやろうか”
何度か、そう言われたことはある。
だがいつもその度に、見返りを要求されてきた。
それは金であったり、それは肉体であったり。
10歳の時に、性行為というものを知った。
それは影三にとっては、暴力の一環であり、見返りの要求の一つであった。
金がないときは、尻か口に男性器を突っ込まれた。
純粋な”親切”など、子供の詠む童話と同じぐらいに、別次元の話だった。
性行為が、恋愛においての愛情を深め合う行為なのだと知ったのは、随分あとだった。

だから、ジョルジュの宿泊をすすめる言葉に、影三つが怯えるのも無理からぬことではあった。
宿泊は影三の経験上、性行為の同意を意味していた。
勿論、同性との性行為は、一般的ではない。
だがそれでも、暴力と陵辱しかしらない影三の10代の経験は、異性愛の常識を疑わせるほどだった。
ましてや、相手は敬愛する医学博士だ。
「あの、俺…金はないんです…」
搾り出すように、影三は告げた。ささやかな抵抗であった。
ジョルジュはしばし、影三の言葉を考えていたようだったが、やがて、ああ、と考えに至る。
「見返りか」
ジョルジュの言葉に、影三は身を竦め……観念した。
怪我の手当てし、食事まで与えてくれたのだ。
それなりの要求は、覚悟しよう。と。
だが、腹を括った影三に対し、ジョルジュは、能天気な言葉を口にした。
「週に一度、私の食事を食べること」
「は?」
あまりに予想外の言葉に、影三は眼を見開いた。
鳩が豆鉄砲を食らったような、表情だった。
「さっき、料理が趣味だと言っただろう?」ジョルジュは言った。「誰か食べてくれる人がいると嬉しいんだ。見ての通り、まだ独り身なものでね」
「え、あ、でも…」
あまりに予想しなかった言葉に、影三はうろたえた。
どういう意図なのかが、正直分からなかった。
いや、それだけが、それだけが要求の筈がないだろう…だけど、なら、どうしてそんな事を言うのか。
困惑と狼狽を隠しきれない影三の様子を見て、ジョルジュは優しげな笑顔を向けて、手を伸ばした。
ぎくりと、影三は身を震わすが、その手は彼の黒髪に伸びて、くしゃくやと撫でる。
まるで、幼子をあやす、父親のように。
「そんな顔をしないで」優しい声色で、ジョルジュは囁く。「私は…その、君の友人になりたいんだ。それで、こんな回りくどいことを言っているんだよ」
「友人?」
「こんな年上の友人は、おかしいかい?」
声色と同じ、優しい眼差しが自分を見下ろしているのを知り、影三は益々困惑の色を深めた。
友人など、この大陸に来てからは、いないに等しかった。
ジェームズの所有物なのだと知れ広がった時から、孤独だったのだ。
そして、今でも、他人の好意の裏を疑ってしまう自分がいる。
だから、友人と呼べる人間など、作れなかった。
それなのに。
「間クン。私は、君を敬愛し、君と共にありたいと思っているんだ。本来なら、友人など、宣言してなりものではないとは、わかってはいる。だが、私と君とでは、あまりに接点がないから…その、やはりおかしいかい?」「いえ」
妙に言い訳がましいジョルジュに、影三は小さく笑った。
ああ、いいのかもしれない。
この人と一緒にいるのは、楽しいかもしれない。
だけど。



”お前は俺から逃げられないさ、ジャック”



「……考えさせて下さい」
即答を、影三は避けた。



◇◇◇



 あの日以来、ジョルジュは影三を頻繁に誘いに来るようになった。
周りの人間は驚いてはいたが、友人になりたいのだということを隠さずに言うので、寧ろ、微笑ましい光景として受け入れられるようになっていた。
そして、半月も経った今、ジョルジュと影三は友人同士であったのだという共通認識さえ生まれてきたのには、驚いた。まだ答えを保留中だった影三は戸惑いを隠せなかったが、他愛のない雑談や、散歩や、映画など。あちこち引っ張りだされることが、楽しくなってきたのだ。
そして、今日も、ジョルジュの自室で夕飯を食べている。
「今日は、中華料理に挑戦したよ」
餃子やレバーの野菜炒めなど、遠い昔、たまに食べた味を思いだす。
「美味しい」影三は素直な感想を述べた。「本当に料理が上手ですね」
シェフになればよかったのに。
そう言う彼の言葉に「たまに職業の選択を誤ったと思うときがあるよ」とジョルジュはおどけた。
見返りは、本当にされだけだった。
影三の経験上、食べさせてもらったら、高額要求されるか、性器を口か尻に突っ込まれるかだった。
だがジョルジュはそんなそぶりはなく、どこまでも優しかった。
同性の友人同士は、こんなにも優しいものなのなどうか。
少し違和感を覚えつつも、経験値の乏しい影三には分からなかった。
だが、以居心地がいいのは、確かだった。
夕食を終え、テレビを眺めつつ、水割りを飲んでいるうちに沈没するのが最近の影三の夜だった。
自室にテレビがないため、ついついテレビを見ようと、長居してしまうのだ。
影三はあまりアルコールに強くはない。
それを知り、ジョルジュは水割りを作って、彼に渡す。
度数が強めのアルコールにすると、彼は程なく眠りに落ちるのを知っていた。
ソファーで眠る彼の頭を、自分の膝にのせて、頭を撫でる。
黒い彼の髪は少し硬くて、指どおりが悪かった。
童顔の彼は眠ると本当に子供のように、無防備だ。
滑らかな彼の頬を撫で、そして、薄く開き、すうすうと寝息を立てる赤い唇の指を這わす。
「!」
ちゅ…と音を立てて、彼の唇が指先を吸った。
心臓が早鐘をうちたてる。
息をのみ、ジョルジュは指先を僅かに口の中に押入れた。
紅い舌が指先を絡めとり、含むように歯が軽く指を挟む。
その官能的な動きに、ジョルジュは指を抜くと、感情のままに唇を重ねた。
舌先を差し入れると、彼はそれを吸い、絡ませ、誘うようだった。
そっと名残惜しげに唇を離し、ジョルジュは彼の頭をやさしく撫でる。
誰に、教わった動きなのか。
誘い受けるような行為は、女性に対するものとは思えなかった。
「誰に、仕込まれたんだ、カゲミツ」
苦しげに、ジョルジュは囁いた。
相変わらず、彼は寝息をたてたまま。



◇◇◇


学長に呼び出され、影三は学長室のドアを開ける。
そこには、学長と、机の前にスーツ姿の男が立っていた。
あ、と影三は声を漏らす。
「こちら、ジェームス・ステイン弁護士だ」学長が嘲うように言った。「例のあの訴訟問題を彼に頼むことになってね。間くんは、彼の友人だそうだね」
「ええ」ジェームスが綺麗に笑って言った。「中学時代から…僕の弟のようなものです」
「そうですか」
学長の笑いは、明らかに影三を嘲笑するものだった。

学長室の隣。ドアを開けた向こうは応接室になっていた。
手狭な印象の部屋の中央にはソファーセットが置かれている。
ドアから中に入るなり、影三は平手打ちされた。
ぱん!と乾いた音が鳴り響くと同時、影三の体が吹っ飛んで、ソファーの上に仰向けに転がる。
起き上がろうとするが、土足のまま腹を踏みつけられ、影三は低い苦痛の音を漏らす。
「俺のいない間に、勝手な真似をするな」
どん、もう一度容赦なく腹を踏み付けられ、苦痛に顔が歪んだ。
「お前を可愛いがったのは、俺だろう?」
足を大きくあげ、今度は彼の股間を踏みつける。
声が出そうになるのを、両手で押さえて、影三は必死で耐えた。
涙が滲み、苦痛でまともに息もできない。
そんな彼の腹に膝を押し付け、そのまま体重をかけて体にのる。
低い悲鳴を漏らす彼に、ジェームスは残酷な笑いを浮かべていた。「まだ、分かっていないのか?ジャック…お前は。尻に俺の性器を突っ込まれて悦ぶ、雌犬なんだぜ。変態雌犬のくせに、逃げようっていうのか?」
うっすらと涙さうかべながら、影三は必死で頭を振る。
「お前は俺の雌犬なんだよ。変態のくせに…やっぱり、傍に置いておくべきだな」
一旦、彼の上からおりた。
咳き込みながら、腹を押さえる彼の鼻先に、ジェームスは仕立ての良い革靴を突きつける。
「舐めろ」
一瞬戸惑ったが、影三は観念したように、革靴を舐め始めた。
それは主従関係を確認させるかのような、屈辱的な行為。
唐突に、革靴が影三の顎を蹴り上げた。
「…ッ!!!」
声にならない悲鳴を上げ、影三は床に転がる。
口元からは、鮮血が一筋流れいた。
ジェームズは靴先で影三の尻を軽く蹴った。
「脱げよ、雌犬」
命令口調に、影三は逆らうこともできず、のろのろとズボンを脱ぎだした。

 学長である、ジョージ・スミスが主催する個人的なホームパーティーは、個人の規模にしては盛大だった。
上品に飾り付けられた室内には、立食形式の料理が盛られている。それは有名シェフの作であり、次あら次へと、溢れんばかりの料理が運ばれていた。奇妙であるのは、ボディーガードが眼を光らせ、不振人物をチェックしていることだろう。
それもそのはず。
名目は妻のバースデーであったが、顔ぶれは様々。
とても友人と気軽に呼べるものではないだろう。
自分の大学の教授陣は元より、有名製薬会社の幹部や、政治家などが集まり、そこは非合法な社交界ともいえた。
そんなパーティーに呼び出され、渋々出席したのが、ジョルジュだった。
一介の助手であるジョルジュがこのパーティーに呼ばれるのは、本来ならありえぬことのはずだったが、北米で権威と呼ばれる老博士のお墨付きとなれば、話は別であった。
寧ろ、今回のパーティーの目玉とも言えただろう。
そんなパーティーは真っ平ゴメンであったが、自分の所属する研究室の教授に言われれば、為す術もない。
そんなわけで、いやいや出席することになたのだ。
「ドクタージョルジュ!」
赤ら顔で学長は、ワイングラス片手でジョルジュに近づいてきた。「貴方のような人物を迎え入れられて、本当に光栄だ!すぐにでも教授の椅子を用意すべきなんでしょうが…そこは辛抱していただきたい!」
「いえ、おきになさらず」
言葉少なめに、ジョルジュは答える。
このパーティーは学長の人脈を広めるものだろう。
それが分かれば、尚更、気が乗らない。
不機嫌そうな顔で、時間が過ぎるのを待っていたが、次から次へ声をかけられて、辟易していた。
製薬会社の幹部、他大学の教授、果ては、教授の妻のお友達まで。
本人はまったく気にしていないが、体格のいいジョルジュはスマートにスーツを着こなし、紳士的な立ち振る舞いであった。そして、彼の灰銀のブロンドは、暗めのパーティー会場ではよく映えて見える。
何もしらない妻の友人たちが、きゃあきゃあ騒ぐのも、無理からぬことではあった。
「ああ、よくきたね。紹介しよう。ジェームス・ステイン弁護士だ」
ひときわよく響く声で、スミスが誰かを紹介している。
ちらりとジョルジュはそちらを見た。
学長の傍にいるのは、長身で神経質そうな男(恐らく弁護士だろう)と、その横にいるのは、黒髪を背中まで垂らす女性だった。
「私の秘書の、ジェニー・ワトスンです。今日はよろしくお願いします」
そう紹介されるのを、ちらりと聞いた。

◇◇◇

「今すぐ、大学を止めるかの選択だ」
パーティー会場へ向かう車内。ジェームス・ステインの科白だった。
その言葉は助手席に座る女性に向けられたものだ。
ストレートの黒髪を背中まで伸ばし、肌は色のついた日中系。
新品であろうピンクのスーツがよく似合っていた。
「今日、巧いことできたら、また暫く、大学に通うのは認めてやるぜ」
「……断れば?」
助手席の彼女は、低く呟いた。その声は、明らかに男性のものだ。
「断れば、即退学だ」ジェームスは、さも可笑しそうに笑った。「その格好で、俺の秘書をやってもらうぜ、ジャック!雌犬には似合いだろう!」
車を駐車場に停め、エンジンを切ると、強引に助手席の人物---影三の顎を掴み、強引にこちらを向かせた。
化粧を施してあるのに加え、彼は童顔であった為、一見、男性とは見破れないほどの愛らしいしあがりになっていた。
「惜しいな、ジャック…お前が女だったら、もっとイイ扱いをしてやったのにな」
口元を歪めて嘲うと、今度は彼の頭をぐいと、自分の股間に近づける。
「舐めろ、汚すなよ」
命令口調に、彼はのろのろと、ジェームスのズボンのファスナーを下ろした。

女装させられるのは、初めてではなかった。
まだ小学生の時から影三はスカートを履かされ、化粧を施されて、街角に立たされた。
本物の少女と勘違いされ、逆上した客に殺されそうにもなった。
だが大概が、尻さえ使えれば問題ないと、路地裏で犯された。
金はジェームスが徴収していた。
勿論、ジェームス自身も、スカートを履いて喘ぐ影三に欲情していた。
また他の、ノーマル嗜好の男子からも、スカート姿でれあれば、口での奉仕を強要された。
そして成人後、その過去を持ち出され、影三はジェームスに逆らうことができなくなっていた。
断れば、暴力が襲い、力づくで奪われる。
弁護士となったジェームスは無敵だった。

別室で、影三は椅子に座るスミスの前に膝まつき、彼の性器を口で慰めていた。
程なくして、スミスは二度目の射精を行った。
精液を総て飲み干したの見て、スミスは、ほおとため息を零す。
「手際が良いねえ、君は」
身支度を整えながら、スミスは笑った。「これなら、ちょっとした時間に出来そうだ」
「ええ、お買い得ですよ、彼女は」
まるでお買い得の商品を説明するように、ジェームスは笑う。
「彼だろう?」スミスは笑って「それは君の趣味か?まあ、言われなければ気がつかないが」
「どちらでも」
「まあ、私は男のままでも良いがね」
「では、契約を」ジェームスは書類を取り出して、スミスに渡す。「彼からの奉仕は口のみです…性行為に及びたい場合は、別料金が……」
二人の会話が聞きたくなくて、影三はふらりと部屋を出た。
珍しいことではない。
もう、10歳のあの時から、自分はジェームスの玩具だった。
よろめくように、人気のない裏庭へと出て、大きく息を吐く。
もう、終わりしよう。そう決心を固めて、影三はこの場に来ていた。
ジェームスからの支配下から逃れるには、これしかない。
もう一度、息を吐いて、眼をきつく瞑った。
頭がぐるぐる回り、地面が揺れているような気がする。
だが、それも当然なような気がした。
「危ない」
鋭い声が聞こえたか思うと、揺らめく体が抱きとめられた。
慌てて影三は眼を開く。
最初に眼に飛び込んできたのは、灰銀のブロンド。
「……!…」
咄嗟に声が出せないほど、驚いた。
自分を支えてくれたのは、ドクタージョルジュだったのだ。
何故、どうしてここに?
「大丈夫ですか」
彼はゆっくりと膝を折ると、自分の膝の上に影三の腰をおろさせる。
「あ、だ、だいじょうぶ…!」
「大分、ふらついていますよ」言葉を遮り、ジョルジュは「これでも、私は医者です。まだもう少し休んだほうがいい」
「でも、ご迷惑を…」
「おきになさらずに、レディ」
綺麗に彼は微笑んだ。
ああ、なんて礼儀正しい紳士なのだろう。
今まで影三が接したことのない人種であり、そして尊敬して、憧れている人。
できるなら、俺は、こんな男になりたかった。
「どうしました?」
心配そうな声色で、彼は囁いてくる。安心できるような、優しい声。
不覚にも、影三の眼から涙が溢れていた。
胸が、痛かった。
「ああ、泣かないで。そんな美しいものは、私になどみせてはいけない」
白いハンカチを取り出し、彼は優しく涙を拭ってくれた。
ああ、そんなところが、女性に人気があるのだろう。
涙を拭う手が、頬をすべり、顎を救い上げた。
え、と思う間もなく、彼の唇が影三のそれと重なる。
優しい柔らかな口付けだった。
小さく、触れるだけのものを繰り返し、気がつくときつく、きつく、抱きしめられていた。
「どうして」ジョルジュは耳元で囁いた。「そんな格好をしているんだ、間クン---」
「ッ!」
思わず離れようとしたが、ジョルジュは手を緩めなかった。
知られたくなかった。知られたくなかったのに。



「ジェニー何処にいる!」


遠くからの呼び声に、影三の背に冷たいものが走った。
「放して、ください!」
「ダメだ」
それは、先程の声からは想像できないような、冷たく、恐ろしい声だった。  

現れたジェームスは、その光景に僅かに瞠目したが、すぐに皮肉な笑みを浮かべて見せた。
「失礼。ドクタージョルジュ…でしたか」
細い銀色の眼鏡フレームを、くいッとあげてみせると、ジェームスははっきりと告げる。
「私の秘書に、何をなさっているのです?事によっては、法に訴えますよ」
「何故、彼に女装を」
ジョルジュは抱きしめる腕を緩めた。
その戒めから逃れた影三は、ジェームスの方へ駆け寄ろうとしたが、ジョルジュにそれを止められる。
「人権無視ではないのか」
「女装?」ジェームスはさも可笑しそうに「ジェニーは女性ですよ」
「戯言だ」
「たとえ、女装した男性だとしても、私には初耳だ。寧ろ、私がだまされていたことになりますが」
「しらを切るのか、ジェームス・ステイン」
見据えてジョルジュは言葉を投げる。
その声色は、恐ろしいぐらいに、冷ややかな音だった。
「何のことだか、分かりかねますね」
そしてジェームスは、影三をみた。そして手を差し出す。「ジェニー、仕事だ。新しい契約者に顔をみせなくてはな」
”契約者”という単語に、影三の肩が震える。
そうだ、そうして俺はあの男に甚振られてきた。
金になる玩具として。
「もう、いい」
影三は一度視線を地面に落とし、呟いた。「あんたの玩具は、とっくに壊れたんだ」
「ジェニー?」
ゆらりと顔をあげた影三の表情に、ジョルジュは戦慄した。
それは、青白く、虚ろでいて、疲れきった老人のような顔。
そして、右手に持つものがぎらりと光る。
無言で影三は突進していた。驚いたジェームスの顔が凍りつくのをみて、ニヤリと笑う。
ざまあみろ、と。
「うわッ!」
咄嗟に交わすジェームズの右腕を、影三が持つナイフが僅かに掠る。
少量の血液に濡れたナイフを、影三は構えなおして、そして一点だけを狙った。
生命維持を司る、心臓目掛けて。
「うわああぁあ!」
恐怖に戦くジェームズの目の前で、ナイフが静止した。
銀色の刃を素手で握り締め、その強攻を止めたのは、ジョルジュだった。
その白い大きな手から滴る血液を見て、影三の眼が大きく見開かれる。
血は、滴る血液は、ジェームスのもののはずだったのに。
「落ち着け、間クン」
刃を握り締めまま、ジョルジュは笑いかけていた。
そして、もう片方の手で影三の頭をくしゃりと撫でる。
「あ…ああ、ドクタージョルジュッ!!」
ナイフから手を離し、我に返ったように影三は紅く染まるジョルジュの手に触れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…俺は、そんな…ドクターを傷つけようなんて…!」
「大丈夫だよ」
カラン。乾いた音を立てて、ナイフが地面に落ちる。
そして、何度も謝罪を繰り返す影三に、優しく微笑みかけていた。
刹那。
影三の体が、吹っ飛んだ。ジェームスの蹴りが、影三の腹部にまともに当たった為だ。
「ふざけるなよ、ジャップがッ!!」
怒りに顔を歪ませるジェームスは、地面に転がる影三にもう一度蹴りをいれようとした時だ。
肩を後方から掴まれ、振り向きざまに、ジェームズはジョルジュの右ストレートを顔面に喰らい、無様にそのまま尻餅をつく。
「随分だな、ドクター」
鼻血を拭いながら、ジェームズは嘲う。「傷害罪で、あんたを訴えても問題な、この場合」
「二度と、間クンに近づくな」
「はあ?」
嘲笑を浮かべたまま、ジェームスは目の前の医者を見て声を荒げた。「面白いことを言うなあ!!ジャックは俺のものなんだぜ!あんたこそ、俺があんたの社会的名誉を壊してやろうか!」
まくし立てていた言葉は、不意に途切れた。
ジョルジュがふところから取り出した、革のケースの中身を、ジェームズの腕に突き立てたからだ。
「な…!」
またも恐怖に顔を歪ませるジェームスに「動くな」とジョルジュは命令する、「このピストンが僅かでも動けば、お前は死ぬぞ」
「な、嘘だろ」
「ボトックス」ジョルジュは言った。「ボツリヌス菌から作られた神経毒だ。美容形成において、顔の筋肉を麻痺させ、皺をなくす。だが、これ原液だからな…成人男性50人は殺せる」
「な…脅迫かッ!?」
「”お願い”だよ、ミスター」
ジョルジュが注射器のピストンに親指をかけるのをみて、ひッとジェームズは悲鳴をあげた。
「金輪際、間クンに近づくな…てことだ。なあ、ミスター、君は私の専門を知らないのか?君のマグカップの底に一滴垂らすだけで、地獄の苦しみを与えられる薬物を、私は、山ほど知っている」
「わ、わかった!ジャックには二度と近づかない!約束するから!もうやめてくれー!!!!!」


悲痛な叫び声は、パーティー会場まで届くことはなかった。


◇◇◇



適当なブティックで洋服を選び、試着室で着替えさせる。
その合間にジョルジュは会計を済ませていたが、エクステも取った姿で現れた彼を見て、店員は心底驚いているようだった。
だがそれを無視して、二人は店を出た。
化粧も落とし、ポロシャツにジーンズ姿の影三は、済まなそうにジョルジュを見上げる。
その視線に気づき、ジョルジュは、近くのコーヒーショップに入ろうと提案した。
明るい室内。コーヒーと煙草の臭いの充満する店の、一番奥にある二人席に座った。
「あの、本当に…すみませんでした」
硬い表情で謝る影三に、ジョルジュはやはり優しく告げる。
「気にするな。友人が困っているのを、助けただけさ」
「え…」
”友人”という単語に、影三は表情を崩した。「そんな…俺は…だって…」
「駄目かい?」
「そんな!!だって、俺は迷惑をかけてばっかりで」
「じゃあ、こうしよう」おどけた口調で、ジョルジュは「ここのブレンドを奢ることで、今回のことは帳消しだ」
「え」
「それでいいだろう?カゲミツ」
「あ…」
名前を呼ばれて、頬が紅くなる。そんな風に呼ばれたのは、何年ぶりだろう。
「おごります!おごらせてください!」
嬉しそうに叫ぶ彼を見て、ジョルジュはゆっくりと頷いた。

今は、まだ、いい。
今はまだ、友人でいい。
二人の時間は、始まったばかりだから。

だから、まだしまっておこう。
この、ささやかな願い事は。
















ささやかな、願い事

※2009年頃に書いたと思われます。