訪ねてきたのは、珍しい客だった。
「どうしたの、ブラック・ジャック先生。お嬢ちゃんは?」
「Tomのマスターとキャンプに行った」
屋敷の主の問いに、客は素っ気なく答えると、真っ直ぐリビングのソファーへと向かい、そこへ身を沈める。
それは、勝手知ったるという、いつもの事。
だけど。
「どうしたの、先生」
ソファーに身を沈めたまま。
虚ろな表情でぼんやりと。考え事をしているのは分かるが、あれは、仕事関係の事ではない。
主である死神の化身ことキリコは、適当にアルコール類を手にしてリビングへと来た。
客の好むアルコールは日本酒であるが、生憎とこの家にはそれがないのは我慢してもらおう。
ぼんやりと、と思ったのは、リビングに広げられてある資料に、この客が一瞥もしないからだ。
常であれば、ぎゃんぎゃんと小型犬のように吠えまくると言うのに。
適当な水割りの入ったグラスを渡せば、客は素直に受け取った。
一口飲むのをみて、死神は隣へと腰を下ろす。
そして、ポケットから少し折れた煙草を取り出して咥えると、ライターで火を点けた。
紫煙を細く吐き出せば、客はことりとグラスをローテブルへと置いた。
「今日、ドクター・クーマが来た」
ぽつりと、客が言葉を落とす。死神は「へえ」と答えた。「わざわざステイツから?先生に会いに?」
「………。」
死神の言葉に応えず、客は数枚の紙片をポケットから取り出して、死神へと渡す。
それを受け取り広げてみれば、見覚えのない手書きのアルファベットがびっしりと書き込まれていた。
「組織工学?随分とユニークな発想だけど、お嬢ちゃんに?」
「…応用出来る部分はありそうだが、私の発想では、ない」
「間 影三か」
生体医工学博士の名前を言えば、客は答えず、黙り込む。
死神は手にしていた紙片を、テーブルに置いた。
そして、咥えていた煙草を右手で摘まむ。
左手でぼんやりしている客の顎をすくうと、驚いた表情が面白く、そのまま唇を甘噛みするように食んだ。
かちりと歯がぶつかり、客の紅い眼が苦痛に歪む。
構わず舌で歯列を嬲ると、客の口の端から飲み込み切れない唾液が流れ出す。
「ッ…キリコ…、煙草!」
「あ?うん、先生吸う?」
「消、せ…!」
圧し掛かりながら、死神は長い腕を伸ばし、壁に煙草を押し付けて揉み消した。
そのままそれを手放すと、リボンタイの端を摘み、ゆっくりと抜いてゆく。
途端に香る、ボディーソープの匂い。
準備済みなの。
勘づくが、死神はそれを口にはしなかった。
◇
岬の診療所に彼の医師が訪ねてきたのは、助手の少女が出かける1時間ほど前であった。
すでにキャンプの準備を終えていたため、突然の来客にも驚かず、少女は「おひちゃちぶりです。こんなに元気になったのよさ」と健康ぶりをアピールしながら、紅茶を淹れたり、お茶菓子を用意したりと忙しく走り回る。
そんな姿を、ドクター・クーマはニコニコと見守っていた。
少女の迎えが来て、天才外科医が見送った後。
「君に、ゆずりたいものがあるんだよ」
アタッシュケースから、クーマはクリアファイルを出した。
とても丁寧な手つきで差し出してきたのは、数枚の紙片であった。
無言で天才外科医はそれを受け取ると、目を通す。紙片には、見覚えのない手書きのアルファベットがびっしりと書き込まれていた。
「これは、随分と大胆な発想ですね」素直な感想を天才外科医は述べた。「理論上は可能でしょうが…これは」
一度言葉を切り、そして「本間先生の理論がベースにある。だけど、全てではない。先生は人工臓器には否定的だった…これは、あなたが?」
「20年前。マイクロサージェリーで四肢再建を断行したが、その後の四肢変形や四肢長不等を心配し、年齢ごとの腱切りや骨延長術が負担となる可能性を危惧し、義肢や再生医療を使用して健常な状態を保つことが出来ないかという模索をしていた」
言葉を止め、そして、息を整えてクーマは言った。
「影三だ。それは、君の成長過程で起こりうる不具合を予測し、回避できないかと、君が成人する年齢まで考え続けていたものだ」
実父の名に、天才外科医は息をのむ。
僅かな動きであったが、助手の少女がいれば、内心の動揺を言い当てられていただろう。
「………何故、今頃、これを…」
息も絶え絶えに、天才外科医は尋ねる。
動揺を隠しきれないことに、恐らく気づいてはいない。
「ピノコちゃんに使えないかと、思ってね」
クーマは動揺する天才外科医の肩を、軽く叩いた。まるで、励ますように。「それは、極秘で影三が私のところへ送ってきたものだ。本間先生へ渡して欲しい、と。当時、全満徳は超人を作ろうとしていた時期でね。結局は失敗に終わったが…それを見る限り、影三であれば可能であったのだろう。人並み以上の力を持つ”超人”を作ることは。だが、影三もまた本間先生を尊敬していたからな」
天才外科医はもう一度、目を通す。
紙片には、見覚えのない手書きのアルファベットがびっしりと。
それは、父親の筆跡なのだという。
◇
動揺を打ち消したい。
そんな本音を吐露出来ず、しがみつく天才外科医を、死神はただ手酷く扱うしかない。
甘えられる関係ではない。甘えてくる関係ではない。
「…クソッ…!痛い!キリ…この、デカブツッ!」
「悪かったな。このサイズしかないもんでね」
「アアッ!…ぅああッ!」
「痛くても、先生なら、我慢できるだ、ろ!」
ベッドの上でなら、泣き言も言える。そうしてやらないと、痛みすら口に出さない。
泣きながら性行為に文句を言う天才外科医に口付ければ、優しくするな、反吐が出ると、酷い事を言う。
確かに、口には出せない。
お父さんは僕を愛してくれていたのが、嬉しくて、苦しい、と。
罵詈雑言の末に3回ほど達してやれば、失神するように眠りについた。
やっと寝たかと腰をあげ、死神はベッドサイドに置いてある葉巻を手にした。
フィリーズ・シガリロ・コニャック。
先日、妹が持ってきたものだ。
貰い物だけど、兄さん貰って?と、テーブルの上に置いておいたものだ。
逡巡した後に、死神はカッターで葉巻の口をカットし、ゆっくりとマッチで火を点ける。
煙草と違い、フレーバーが微かに香る。ゆっくりと、紫煙を燻らせ、死神は視線をおとす。
その先には硬い表情で眠る、天才外科医の寝顔。
ドクター・クーマは、ここにも来た。
元気そうで何よりだ、と彼は言った。
特に会話を交わしたわけではない。
だが。
葉巻は止め、煙草をリビングにとりに行くために立ち上がる。
天才外科医は、眠ったままだった。
-了-
2015.6.1加筆