罪に濡れる
霧雨は夜半過ぎには霧へと変わり、倫敦の薄闇を一層濃いものへと変えてゆく。
蝋燭を片手に、探偵はドアをノックした。
親友である医師の寝室のドアだ。
返事はなかったが、探偵は「入るよ」と断りを入れて、ドアを開けた。
鍵のかかっていないそれは、あっさりと探偵の侵入を許してしまった。
医師は、灯かりもない寝室で、ベッドの淵に腰掛けたまま。
まるで人形のようだった。
それは、探偵にしてみれば、非常に興味深い、縺れた糸のような事件だった。
複雑に絡み合う思惑と陰謀と人間関係を、探偵は慎重に解きほぐし、そして、
総ての大元であり主犯となる、凶悪犯を暴き出した。
それは依頼主の叔父であった。
人畜無害の仮面を被った彼は、真相をすっかり晒された瞬間、
悪魔のような形相で、猛然と探偵に踊りかかっていた。
それは、悪鬼のような、獰猛な獣のような勢いで、
探偵の細い首を掴むと、そのまま2人はもつれ合って、
大階段を転げ落ちていた。
運悪く下敷きとなった探偵は、頭を打って脳震盪をおこしてしまったらしい。
朦朧とする意識が、視界に、男が振り上げる、中世の斧を認めたとき、さすがに絶命の危機を感じた。
だが、その斧は振り下ろされることなく、血飛沫があたりに飛び散った。
2発の銃声が男を襲い、弾丸の一つは、振り上げられた男の手首を、もう一つは男の首を撃抜いていた。
頚動脈を綺麗に掠めた瞬間、男の首からは、噴水のように血液があたり一面を染め上げ、それは文字通りの血の雨のようだった。
撃抜いた本人である医師は、探偵を気遣い、それから、男の患部を圧迫し止血を試みたが、傷は思いのほか深く、そのまま男は意識を失った。
優秀な外科医の下へ運ぶまで、医師は自分のもてる技術をもって、男を処置し続けたが、簡易医療器具しかないこの場では、限度があった。
そして、病院にて、死亡が確認された。
その場に居合わせた警官の証言もあり、医師は正当防衛が認められた。
だが。
「すまない、ホームズ…」
医師は力なく頭を下げ、静かに言葉を紡いだ。「君の事件を、僕は台無しにしてしまった…僕は本当に無能だよ…出しゃばった真似をしたばかりにね」
「気に病むな。君のお陰で、僕は無事なのだから」
通り一遍の言葉しか出
てこなかったが、医師の胸中はどんなものか。
”君の事件”と言う彼は、犯人を結果的に死なせてしまった事を、悔いている。
いや、殺してしまった現実を。
それは探偵を救うためと言う、大義名分があったのだから、間違った行動ではなったのだ。
だけど、今の医師には届かないだろう。
夕食を終え、医師は早々に自分の寝室へと戻っていった。
青い顔をした彼は、恐らく眠れないであろう。
霧雨は夜半過ぎには霧へと変わり、倫敦の薄闇を一層濃いものへと変えてゆく。
蝋燭を片手に、探偵はドアをノックした。
親友である医師の寝室のドアだ。
返事はなかったが、探偵は「入るよ」と断りを入れて、ドアを開けた。
鍵のかかっていないそれは、あっさりと探偵の侵入を許してしまった。
医師は、灯かりもない寝室で、ベッドの淵に腰掛けたまま。
まるで人形のようだった。
「大丈夫かね」
探偵は抑揚のない声で、尋ねる。
その言葉に医師は、自分の手を見詰めながら、ぽつりと言葉を落とした。
「…君が死んでしまうのじゃないかと、怖かった…」と。
探偵は蝋燭を棚に置くと、彼の隣に腰掛ける。
それを見ずに、医師は言葉を続けた。「無我夢中だった…でも、僕は、あのとき、君が無事であればそれでいいと、思った。あの男の生死なんて、一つも考えはしなかった。でも、でも、僕は、僕は医者でありながら、今までどれだけの命を取りこぼし、見捨ててきたんだ?銃を持って敵兵を殺しながら、同胞の命も救えない無能な僕は、戦場でもないこの平和な倫敦で、命を軽んじてはいないだろうか」
「ワトスン」
「僕は、飢えているんじゃないか?僕は、血に飢えているんじゃないだろうか。僕は、血に飢えた動機なき殺人者と同じ嗜好をこの身に宿しているんじゃないか…!」
「ワトスン」
細く長い白い指が、医師の唇に触れた。
ハッと我に返り、医師は探偵をはじめてみる。
探偵は、冷たい無表情ではあったが、その灰色の眼は、蝋燭の頼りない明かりだけでもわかる位に、不安と悲しみに彩られていた。
「…君にそんな思いをさせる為に、同行してもらったんじゃない…」
彼は、厳粛に言った。「君の不安は、的外れだよ。ワトスン。本物の快楽殺人者は、悔いたりなどしない…君のように苦しんだりはしない」
「…ホー…ムズ…」
「苦しませるのは、僕の本意ではない…でも」
探偵の長い腕が、棚の上にある蝋燭に伸び、指で炎を摘むように消した。
後は、深夜の薄暗闇が、あたりを支配する。
「僕は、君に、共に冒険に来て欲しいと思っている」
二人の影が、重なった…。
(2010.8.28pixiv掲載)