登場人物
依頼調査を終え、探偵は居間へ入るためにドアを開けた。
こつん。
居間に入り数歩進まないうちに、探偵は足先にそれをぶつけた。
「………。」
足先にぶつけたそれは、ドア前で熟睡する同居人の体だった。
「……ワトスン君…」
ため息混じりに、探偵はその場にしゃがみ込んで、同居人の顔を覗き込む。
少し顔色が悪く見える肌には、身だしなみに気をつける英国紳士にはあるまじき不精な髭が生えはじめている。
右手にはペン軸を握り、左手には、吸い取り紙。
どうやら、例の小説が仕上がり、編集者が持っていったのだろう。
「ワトスン君、起きたまえ」
肩を揺らすが、床で睡眠を貪る彼は、何事かを口の中でモゴモゴと呟くだけで、一向に起床する気配も無い。
まったく。
「ワトスン君、起きたまえ!」
少し強い口調で告げながら揺り動かすが、まったく効果が無い。
まったく。
もう一度ため息を落とすと、探偵は今の奥にある文机に視線をやった。
いまや机の周りは、フールスカップや手帳が散乱し、この今の中で最も白いものを積もらせた空間となっていた。
まったく。
「君と言う人間は、紙上の人物にばかり心を配って、そのモデルたる本人には敬意を払うつもりもないのかね」
同居人の頭の中は、探偵『シャーロック・ホームズ』を活躍させる事に集約しているらしい。だが、その紙上の登場人物のことばかり考え置いて、その本人である生身の同居人を蔑ろにするのは、いただけない。
彼が眼を覚ませば、そんなことはないと言うのだろうが、だがしかし、現に今は、紙上の登場人物に付き合い、疲れての熟睡ではないか。
まったく。
太刀打ちのしようがない。それは認めよう。
結局のところ、同居人たるワトスンの関心を一心に受ける、紙上の自分に、探偵は苛立ちと焦燥感を抱いているのだ。
だが。
「あ、お帰り・ホームズ」
「君のベッドはいつから床の上になったのだね。さあ、いい加減におきたまえ」
「ごめんごめん…ついさっき編集に小説を渡したばっかりでさ…」
立ち上がる同居人に、探偵は手を差し伸べた。
温かく優しい彼の手を握り、床から立たせる。
生身の彼に触れられるのは、勿論、生身の探偵のみだ。
締め切りが近ければ、その関心を一身に受ける紙上の登場人物たる自分が憎たらしくもあるが、今、彼の眼は生身の探偵に注がれているのだ。
フン。と探偵は文机に向かって鼻をならす。
その意味を、ワトスンは勿論知らないのだが。
2011.4.14
不良保育士コウ