アヴェ・マリア
春風が心地よく肌を撫で、日差しに温かさを感じる頃。
鬱蒼とした林に守られるように囲まれた広い芝生は、日常の雑踏や喧騒とは無縁の空間であり、ただ静かに、時を刻んでいる。
芝生には、規則正しく並べられた、白い十字架や四角の白い石があった。
墓碑だ。
それらは、安息の眠りにつく愛しい者たちの、厳粛な場所。
ワトスンとホームズは、その一角にいた。
事の起こりは、ワトスンが墓参りに行こうとしていたのを、探偵が目敏く察知したからだ。
一人で行くつもりであったに違いなかったが、目ぼしい事件もなく暇を持余していた探偵は、自分もついていくと提案したのだ。
ただの暇つぶしだろうと、ワトスンは判断し、それを快諾した。
特に会話も無く歩く二人の沈黙は、不快なものではなかった。
それは、3年もの間離れていたにも関わらず、変わらぬものであったことに、探偵は少なからずとも、胸をなでおろしていた。
ふと、ワトスンが、空が澄んでいるねえ、と声をかける。
それは、独り言のような気もしたが、探偵が、そうだな、抜けるようなという言葉が正に似合うと言うと、その通りだね、とワトスンは答えた。
他愛のない会話。
いつの間にか、親しげに組まれた腕。
肩を並べて、二人は墓地へと向かっていった。
3年間。ワトスンの傍らに立つ探偵は、死んだフリをして世間から身を隠していた。
そのたった3年の間。ワトスンが失ったものは、計り知れない。
親友を亡くした彼は、妻までも亡くしてしまったのだ。
医師でありながら、病で愛する妻を失う絶望は、当事者にしか分かりえない。
壮絶なまでの孤独の中、彼が生き続けてきたのは、彼の強い意思の成すところなのだろう。歯を食いしばり、涙を流さずに、彼は笑顔を絶やす事をしなかったのだという。
今、こうして再び探偵はワトスンの隣に立つ事を許された。
だからこそ、探偵には、使命がある。
3年間。彼を騙し続けてきた、償いを。
花を手向ける親友の背を眺めながら、探偵は手にしていたケースから、愛器を取り出した。
本来なら室内楽器であるバイオリンを、外に持ち出すなど、したくはない。
だが、だからこそ。
背後から響いてきた調べに、ワトスンは驚いたように振り向いた。
目に映ったのは、愛器を奏でる、繊細で優雅な親友の姿であった。
その、あまりに有名な調べは、その穏やかな墓地の空間を丸ごと包むような気さえする。
ワトスンは、思わず、胸を押さえた。
シューベルト作曲
アヴェ・マリア
変ロ長調のこの曲は、ピアノで伴奏されるのが普通であり、右手で歌詞、左手で伴奏を同時に演じられるくらい簡単な曲である。左手の通奏低音と右手6連符が歌手を盛り上げる。
だが、そのメロディとハーモニーで、数あるアヴェ・マリアのなかでも上位一二を競う名作とも言われている。
元はイギリスの詩人ウォルター・スコットの「湖上の美人」に曲付けしたもので、少女が湖畔の聖母像に、祈りをささげる歌といわれていた。
親友のバイオリンを凝視していた、ワトスンの翡翠色の眼から、涙が溢れた。
それは、あまりに静かで、あまりにも、控えめに。
それは、実にワトスンらしい、涙であった。
音を抜いたのを見ながら、まるで独り言のように、ワトスンは呟く。
「…ホームズ…君は凄いな…」と。
探偵は、愛器をケースの上に置くと、親友の肩に手をおいた。
そして。
「…ワトスン…取り乱しても、いいよ…僕は君の隣にいる…」
ゆっくりと、言葉を告げる。
目の前の医師は、自己抑制力に長けた男だった。
いつでも穏やかに笑い、他人の心を優先させる。
そして、自身の心を押し篭めてしまえるのだ。
実に見事に、まるで、乗り越えられたかのように。
だが。
傲慢を承知で言えば、探偵には分かった、親友として、彼の傷が。
その傷を最初につけたのは、誰でもない、ホームズなのだ。
そして更に傷が深く抉られたのは、妻の死なのは、推理するまでもなかった。
似合いの夫婦だった。妬ましいぐらいに、愛し合っているのが、よく分かった。
だから、こそ。
周囲を欺けても、探偵の、親友の眼を誤魔化す事は、できない。
だから、こそ。
一瞬、ぽかんとした彼は、齟齬するように探偵の言葉を、ゆっくりと理解する。
探偵は、眼で、訴える。
ワトスン、君は、一人じゃない、と。
その眼の意味を正確に理解した瞬間、まるで決壊したかのように、ワトスンの表情がくしゃりと歪んだ。
「…ああ…うわあぁああ…ああああああ!」
吐き出すように、慟哭する。
揺らぐ体を、探偵はしっかりと、支えていた。
ワトスンは外聞も無く、声をあげ、涙を流していた。
「あああ!…メアリ…!…メアリー!…」
それは、ワトスンが初めて流す、妻への涙であった。
Ave Maria! Jungfrau mild,
Erhore einer Jungfrau Flehen,
Aus diesem Felsen starr und wild
Soll mein Gebet zu dir hinwehen.
2011.4.26
不良保育士コウ