潜入捜査
今にして思えば、奇妙であり巧妙な出来事であった。
それも、今にしてみれば、だ。
その只中にいる時は、それが奇妙だとは思わない。
同居人である探偵なら、見抜いたかもしれないが、生憎と彼は一週間前から不在だったのだ。
そうだ、だから、だ。
だからこの奇妙な出来事に、何の疑問も抱かずに、ジョン・H・ワトスンは乗っかることとなったのだ。
大きな旅行鞄を手に持ち、ワトスン医師は階段を降りてきた。
その様をみながら、下宿の女主人は笑い半分、困り顔半分の、複雑な表情をしてみせた。
「本当に、いつになるか、分からないのですか?」
ハドスン夫人の言葉に、医師は済まなそうに「なるべく早くもどりますよ」と返す。
「本当に、お早く願いますね。もし、先生が不在の時に、あの方が帰ってらしたら、それはもう手がつけられませんのよ」
「彼の予定が分かれば、私もそれに合わせて戻ってこれるのですがねえ」
「本当ですわ」
二人の言う”彼”とは、当然、探偵シャーロック・ホームズのことをさしていた。
探偵はが事件のために下宿を飛び出して一週間。何の音沙汰もない。
それも、いつもの事だったが。
「じゃあ、行って来ます」
下宿のドアを開けると、通りには上等の四輪馬車が待機している。
それに、医師は乗り込んだ。
「ご無理を言って、申し訳ありません」
馬車の箱にすでに座していた紳士が、頭を下げた。
体躯のしっかりとした立派な男性の一礼に、医師は慌てて「いえいえ」と手と顔を横に振る。「こちらこそ、ありがとうございます」
「突然の話でしたのに、やはりドクターワトスンは懐が広い方でいらっしゃる」
「いえ、そんな…」
困ったように頬赤らめて、医師は頭を掻いた。
この目の前の紳士の名前は、トニー・ネルソン。
ワトスンの知人でありやはり開業医である、アンストラザー医師から紹介された紳士であった。
トニー氏と、トニー氏の父であるコルス氏はワトスンの著書の大ファンなのだという。
コルス氏が田舎でとる休養を、ぜひとも共に過ごしてほしい…というのが、ネルソン親子からの申し出であった。
些か不躾な誘いであったが、あまりに熱心に頼み込んでくるので、ワトスンも、その迫力と熱意に、つい「はい」と答えてしまったのだ。
それ自体は、別段問題がない。
問題は、ワトスンがこの親子と田舎へ行く事を、例の探偵に知らせる術がなかったことであった。
だが、それはホームズが悪い。
僕に黙って捜査に出るなんて、ずるいじゃないか。
そう考えるワトスンの中に、のけものにされたという意識があったと、今なら認めよう。
だから、こっちも勝手に出掛けてやる。という気になったのも。
探偵は、ワトスンが自分に知らせることなく、遠出したり外泊する事を極端に嫌っていた。
嫌っていても、知らせようがないじゃないか。
思わずふくれっ面をする医師は、実年齢よりもはるかに幼くみせるのに十分だった。
それを見て、笑いを含むトニー氏の表情を、医師は見てはいなかった…。
「駅へ向かう前に、ご一緒していただきたい店があるのですが、よろしいでしょうか」
馬鹿丁寧なトニーの言葉を断る理由もなく、医師はただ頷いた。
馬車はかなりのスピードで駆け抜けてゆく。
どの辺りを走っているのか検討もつかなくなったころ、馬車はようやく停車した。
馬車を降りて、ワトスンは目の前にある建物を見上げていた。
ジョージ王朝様式を模した、美しい玄関は品がよく、貴族の屋敷を思わせたが、どうやら店のようだ。
微かに臭う、あの独特のテムズ川の匂いから、ロンドン市街であることは確かなようだ。
「では、参りましょう」
「え、あ、はい」
トニー氏がドアを開けると、まばゆいばかりのシャンデリアが、玄関ホールを照らし出していた。
赤い毛足の長い絨毯が惜しみなく敷かれ、ふわふわと足元が心許ない。
一体、ここは何処なのかと問おうとした時だった。
「ようこそ、いらっしゃいました」
「わあ!…あ、どうも…」
出し抜けに声をかけられて飛び上がりながらも、ワトスンは返事を返す…言葉が固まった。
そこにいたのは、黄色いサテン生地で誂えたスーツを纏い、顔の半分を仮面で隠すした男性がいたのだ。
その異様な光景に、医師は何を言ったらいいのか分からず、口をパクパクさせる。
「ドクターワトスンです」
それをものともせずに、トニーは医師の自己紹介をはじめた。「ここは初めてですので、どうぞよろしくお願いします」
「それは、それは」
黄色の男は、満足げに口元を歪めると「我がクラブへようこそ」と頭を下げた。「ここは仮装を楽しむクラブなのです。さあ、ワトスン先生、あなたに誂えた衣装を差し上げましょう」
「え、あ、ちょ…まってください!」
「シャーリー!!」
一際高い声で、黄色の男は名前を呼ぶ。
すぐにとんできたのは、やはりサテン生地のスーツを着たひょろ長い男だった。仮面もしっかり被っている。
「およびですか、リリアン様」
「例のお客様のVIPです。赤い部屋へお連れして、御召しかえの手伝いをなさい」
「承知しました」男はひょろ長い身体を二つに折ると、ワトスンの腕をとった。「さあ、こちらへどうぞ」
「え、あ、僕は…あの!」
ひょろ長い男は事のほか強い力で、ワトスンをズンズンと奥の部屋へと連れて行く。
慌てて振り返った時、トニー氏が黄色の男から何やら受け取っているのが、ちらりと見えた。
男に腕を掴まれたまま、ワトスンは一室に連れてこられた。
なるほど、赤の部屋と言うだけあって、壁は赤く、調度品も赤系統のものばかりだった。
「あ、あの、僕はその…よくわからないのですが…」
自分を連れてきた男に、ワトスンはとりあえず、正直なところを告げる。
実際、何が何だかよくわからないのだ。
ひょろ長い男は、大きくため息を吐くと「…君ねえ…」と聞き覚えのある声を吐き出した。「少しは警戒したら、どうなんだ。まったく…君という男は」
「え」
あまりに聞きなれた、いや聞き飽きるほど聞いている声に、ワトスンは口をパクパクとさせながら、男の顔を指差していた。
「…きみ……ほー…むず…?」
それだけ言うのがやっとで、ワトスンはその場にへたりこんでしまった。
静かに仮面を外すと、なるほど、そこには見飽きた同居人の顔があったのだった。
「大丈夫か」
へたりこんだワトスンの目線にあわせるように、探偵も膝を折った。「まったく、まさか、カザラー伯爵が熱望していたVIPが君だったとはねえ…」
「は?何?何のことなんだよ」
頭の中が疑問符だらけです。という表情をするワトスンに、探偵は思わず吹きだした。
無理もない。
だが。
「……今、僕が追っているのは、人身売買組織なんだ」
急に声のトーンを落とし、耳元で囁くように探偵は説明する。「このクラブは人身売買の斡旋を生業としている。客のニーズを聞き、ここに集めてくるんだ。勿論、集め方にもよるが、人を連れてくるだけでは罪にはならない。僕はカザラー伯爵が、もう何人もこのクラブから少年を連れ出しているという情報を掴んだ。そして、このクラブに潜入して機会を伺っていたんだが…」
「が?」
眼を丸くして話を聞いている医師の耳元で、探偵はため息を落とす。
「カザラー伯が、素晴らしい素材を見つけ出したと言っていた。中流階級に置いておくのは、私への冒涜だ、と。今度VIPとして連れてきて欲しいと、ここの支配人に頼んだわけだ」
「それが、ぼ…ッ!!?」
大声を出す寸前に、探偵の手が医師の口を塞ぐ。
ワトスンは眼を白黒させながら、大声を飲み込んだ。
「その罠に掛かって、君はノコノコやってきたわけだ。君は単純な野うさぎか」
「…うるさい」
決まり悪そうに睨み付けてくる医師を見て、もう一度探偵はため息を吐く。
「とにかく、君は窓からでも逃げるんだ。捕まるんじゃないぞ…そこまで面倒は見切れない」
「…連れ出された少年は、カザラー伯の屋敷にいるのかい?」
「分からない。だが、人数からして、最早、この世には…」
「でも、監禁されている可能性もあるんだよね」医師は言った。「やるよ、わざわざ僕をご指名してくれたなら、難なく潜入できるしね」
「なッ!」
医師の決意に、探偵は眼を見開いて両肩を乱暴に掴む。「何を言っているんだ、相手は嗜虐思考の少年趣味なんだぞ!下手をしたら殺されるんだッ」
「でも、少年たちを助ける可能性も出てくるだろ」
「駄目だ、そんな事させられない」
「いやだね、僕は絶対にする」
「ワトスン!」
「決めたんだよ。だいたい酷いじゃないか、こんな潜入捜査を僕になんの一言もなくしていたなんて」
「それは…」
君に触れさせたくなかったから…と小さく呟く探偵の声は、ワトスンには聞こえない。
医師は赤いベッドの上に置かれた衣装を見て、いそいそと着替えだしていた。
「…ワトスン君」珍しく、力なく探偵は口を開いた。「無茶はするな…危険だと思ったら、すぐに逃げるんだよ、僕は、傍にいてあげられないから…」
「わかった、大丈夫だって!」
意気揚々と答えつつ、衣装を広げてみて、ワトスンは絶句した。
用意された衣装は、少女の着るような愛らしいワンピースだったのだ。
□□
「そうか、とうとう呼んでくれたか!」
シャーリーにシルクハットを渡しながら、レイモンド・カザラー伯爵はその野太い声で笑いだす。
「ええ、赤い部屋でカザラー様をお待ちです」
支配人であるリリアンが、恭しく頭を下げると「よくやってくれた!」とカザラーは満面の笑みを惜しみなく浮かべていた。
「いやいや、彼は医者や作家をやるには、本当に惜しい人材だ。それぞれに相応しい職業がある。彼は、私の元に来るべく星の下に生まれたのだよ」
「仰るとおりです」と、リリアン。「本質を見抜く最上の眼を持つカザラー様だからこそ、です」
「そうだ、彼は私のものになる!」
大業な演説のような言葉を、シャーリーとして潜入していたホームズは、ただ黙って聞いていた。
だが、その口の端からは、唇を噛み締め過ぎたために、血の筋が僅かに流れていた。
赤い部屋のベッドの上には、美しい少女が横たわっていた。
豊かな栗色の髪は括られる事なく、ベッドのうえにさらりと流れ、上等の桃色のワンピースが白い肌によく似合う。
その細い首には、赤い皮製の首輪が嵌められ、それだけが、異様な違和感を醸し出していた。
部屋を訪れたカザラーは、意識なく横たわる美少女を見下ろすと、大きく眼を見開き「素晴らしい」と呟いていた。
「なんという素質だ…私の眼に狂いはなかった!」
歓喜に震える指先で、カザラーは不躾に少女の胸に触れた。
そこには、少女に当然あるはずの豊かな隆起はなく、平らな胸板があるばかり。
それもそのはず。
この美少女こそ、先ほどまでワンピースに絶句していた、ジョン・H・ワトスンの姿であったのだから。
ウィッグをつけ探偵お得意の変装用の化粧を施したワトスンは、鏡の中の自分の姿に呆然とした。
もともと小柄であったとはいえ、化粧一つ、衣装一つでここまで変わるものだろうか。
鏡の中には、どうみても14,5歳程の美少女がこちらをのぞきこんでいたのだから。
「このメーキャップの腕を買ってもらったんだ」
探偵は苦い表情で、鏡越しに変わり果てた親友の顔を睨み付ける。「しかし、まさか、ここまで幼くなるとは…君は年齢を誤魔化しているのか?」
「そんなわけ、あるか!」
ぷう、と膨れるワトスンの表情に、探偵はさりげなく視線を外す。
その仕草をみて、医師は少し傷ついた。
カザラーの命令は、ワトスンの着替えを終えた後、彼を眠らせておくように、との事だった。
勿論、シャーリーはその命令を実行する気でいた。
VIPが親友でなければの話だが。
結果として、ワトスンは意識のないふりをすることとなった。
その方は身を守れるうえに、何か情報を聞く事ができるかもしれない。
だから、胸元をまさぐるカザラーの手の動きに、ワトスンは耐え忍ばねばならなかった。
確かめるように動くその動きに、悲鳴が咽喉を駆け上がるが辛うじてそれを飲み込んだ。
丁寧というよりも、まるで蛇でも這い回るような動きに気色悪さが否めない。
どうしてこんな男が自分を気に入ったのか、まったく見当もつかなかった。
「さあ、帰ろうか、ジョン」
耳元で囁かれ、ワンピースの下の肌が粟立った。
勝手にファーストネームで呼ぶな、と叫びたかったが、ぐっと堪える。
不意に、身体が宙に浮いた。
いや、抱き上げられたのだ。まるで結婚式の際に、花嫁を抱き上げるように。
密着するカザラーの体に、ワトスンは嘔吐してしまいそうだった。
そして、数人の少年たちが、このような気分を味わったのだと思うと、怒りが込み上げてくる。
自分で最後にしなければ、犠牲者が増えるばかりなのだ。
探偵がワトスンに指示したことは『騒ぎを起こせ』ということだった。
火事でもなんでもいい。とにかく、他人が屋敷内に入り込んでもいい状況を作り出せ、とのことだ。
最も、監禁されてしまえば、それは不可能だ。
その場合、翌日に探偵がカザラーの屋敷を訪れるということになった。
親友の足跡を辿り、ここに行き着いた、と白々しく。
今にして思えば、アンストラザーに紹介されたネルソン親子は、偽装だったのだろう。
患者家族に付き合っての長期旅行に行ったと思わせ、後に旅先で行方不明になるか、また別の地へ旅立ったと言うのか。
不在の理由を周囲に信じ込ませ、連れ出してしまえば簡単だ。
探偵が留守であるのも、きっと好都合であったに違いない。
まさか、その不在理由が、自分たちの身辺調査であったとは、迂闊であっただろう。
だが。
この迂闊な偶然がなければ、ワトスンは永遠にベーカー街から姿を消したに違いなかった。
馬車が大きく揺れてどこかに頭をぶつけた拍子に、ワトスンは思わず眼を開けてしまった。
「おや、お目覚めかね」
野太い声が耳を擽る。顔をあげると、すぐ近くに男性の顔があり、ワトスンは心底驚いた。
カザラー伯爵だ。
ワトスンは、思わずカザラーの顔をマジマジと見つめる。
まったく見た事のない男の顔に、ワトスンは、どうしてと心の中で自問した。
職業柄、患者や患者家族の顔は忘れない。
だが、カザラーの顔はまったく見覚えがない。一体全体、何がどうしてこの男が自分を気に入ったのか。
「初めまして、ワトスン先生」
不気味なほどにこやかに挨拶するカザラーに、ワトスンは「初めまして」と状況にあわず紳士的に挨拶をする。
その反応がいたく気に入ったらしく、カザラーは「ほう」とため息のような熱い息を吐いてみせた。
「さすがは、名探偵シャーロック・ホームズの部下であるだけはありますな。肝がすわっている」
「…ホームズは私の上司ではありません。友人です」
棘を含む物言いに、ワトスンはムッとして反論する。
だがカザラーはその反論を聞き流したのか、意に介さないのか、自分の話を続けていた。
「あのような変り種の人間の下にいるのは、あなたには相応しくありません。ドクター、私の屋敷へお越しいただければ、一生の贅沢を保障致しますよ。貴族の生活というものをね」
「生憎と、そのようなものに興味はありませんので」
「そうですか、それは残念だ」
優雅な仕草で、カザラーは派手なジャケットの内から白いハンカチーフを取り出した。
白地にピンクや紅い花の刺繍を施したそれは、彼が手にするには違和感を覚える女性のものだった。
ワトスンはそのハンカチーフを凝視した後にザッと音が出そうなほど青褪めた。
「それは、まさか…」
「貴方がプレゼントしたものですね、あなた方の下宿の女主人に」
怯えたような口調に、カザラー伯はいよいよ愉快そうに口元を歪めた。「寝室の右奥にある5段チェストの2段目にありました…ここまで言えば、理解していただけますか」
「ハドスン夫人に何かあれば、貴様を許しはしないッ!!」
鋭い一喝が馬車内に響く。
翡翠色の眼が怒りに染まり、カザラーを射抜いた。
ぶるりと、体が震える。武者震いだった。温厚であり優しい医者と評判であるワトスン医師が、こんなにも烈しい表情をするなど、考えられない。
少なくとも、あの小説の読者は、思わないのではないか。
そう思うと、カザラーは「素晴らしい!」と声をあげていた。「そのような素質を持っていたとは…ワトスン…君は私の為に存在する人間だ!」
「………。」
声高らかに宣言する中、馬車は動きを止める。
どうやら、目的地についたらしい。
ワトスンは布で目隠しをされると、両脇を抱えられるようにして拘束されたまま、歩き出すしかなかった。
聞こえるのは、靴音と木のざわめく音。
郊外を想像させられたが、それ以上のことは分からない。
カツーン、カツーン…と鈍く響くその音だけが嫌に耳につき、薄ら寒い印象だけがこびりつく。
がちゃり。とドアが開けられる音と共に、ワトスンはどこかの部屋へと入れられたようだ。
柔らかなもののうえに座らせられたところで、ようやく目隠しをはずされる。
室内は想像した通りの石造りの部屋であった。
ただ、自分の座らせられているベッドだけが異様に大きく、天蓋からは白いレースが垂れ下がっている。
両脇を支える人間を見て、ワトスンはぎくりと体を強張らせる。それは医師としての本能からであったか。
少年であった。
少女のような整った少年たちの眼は、何もうつしてはいない。濁った碧眼はどこまでも虚ろのまま。
そして二人は汗をながしていた。暑くもないのに、細かな汗を。
それだけで気づいてしまうのは、ワトスンが薬物中毒を専門にするほどの知識を持つ医者であったから。
「愛らしいでしょう、私の人形たちですよ」
カザラーの粘つくような声も、ワトスンの耳を素通りする。
瞬時に、細かく、観察し、ワトスンは沸き起こる怒りを押しとどめ、カザラーを見た。
「わかりました」ワトスンは、言った。「私は貴方の従順な人形になりましょう。だが、条件がある。私以外の人形は総て解放することです」
「それは、それは」
ニヤニヤと笑いながら、カザラーは白く綺麗な手でワトスンの顎を掬いあげる。「随分と不公平な条件だ。貴方は自分をそれほど過大評価なさっているのですか」
「貴方の望む事を何でもしましょう。薬物など使用しなくとも、貴方を絶対に裏切らない」
「自分の意思で、ということですか?」
「その通りです」
「私が死ねと言っても?」
「望むのなら、笑って死にましょう」
「素晴らしい!」カザラーはその顔を近づけ、ワトスンの翡翠色の眼を覗き込む。「私があなたの、この翡翠色の瞳がほしいと言えば、あなたは、私に差し出すのですね」
「望むものを総て、です」
「ならば」カザラーは告げる。「誓いのキスをしてもらおうか、私のジョン…この身が総て私のものであるという、忠誠を」
「………解放が先です」
「忠誠が先だ、ジョン」
ゆっくりと近づくカザラーの息が、ワトスンの唇に生温かく吹きかけられる。
睫と睫が触れあい、その近しい距離から体温すらも感じられそう。
嫌悪感からくる嘔吐反射が咽喉を駆け上がるのを、ワトスンは辛うじて押さえ込んだ。
自分の身の上を持ち出したのは、賭けだった。
確か、ホームズはワトスンをいたく気に入ったと言っていたのを思い出して。
薬物中毒にしていたのだ。この少年たちを。
赦せない。そして何より、早期治療が必要だ。一刻の猶予も無い。
少年の解放後のことも心配であったが、恐らく、ホームズがどうにかしてくれる筈だと、ワトスンは考えていた。
恐らく彼なら、少年たちを然るべき治療を施せる場所へ送ってくれる筈。
だから。
覚悟を決めて、ワトスンは眼を綴じた。
躊躇うことなど、何も無い。自分は医師だ。患者を助けるために惜しむ身など、ありはしないのだから。
細かく震える唇が、カザラーの柔らかで気色悪い唇に軽く触れる。
そのまま離れようとしたが、カザラーの唇が角度を変え、ワトスンは大いに戸惑った。
だが、ここで拒んでは、先ほどの言葉が偽りとなる。
覚悟を決め、ワトスンはその唇を吸い上げようとした時だった。
突如、大音響を立てて窓硝子が砕け散る。
続いて、バキバキと恐ろしい音を立てて、窓の木枠が素手で破壊され、黒尽くめの男が窓から侵入してきたのだ。
顔は、月光差し込む窓を背にしているため、逆光で伺えない。
「今晩は、カザラー伯。良い月夜の晩ですな」
黒尽くめの男は、手にしていた銀色のそれを、カザラーに向ける。
ワトスンがいちはやくその存在に気づき、咄嗟にカザラーを突き飛ばした。
そのコンマ何秒かの差で響いた銃声は、明らかにカザラーの命を狙ったもの。
「な、何者だ、貴様ッ!!」
怯えたような声でも、威厳を保とうとしたのか、床に這い蹲りながらカザラーは叫ぶ。
だが黒尽くめの男は、殺気漂う恐ろしいオーラを吹き上げながらカザラーの傍まで来た。
その迫力に、カザラーは声すらも出せず、無意味に口をパクパクと開閉させる。
そして、再び手にする銀色のそれをカザラーへと向けた。
ヒッ!とカザラーは短い悲鳴をあげる。
それは、銀色の連発式拳銃であった。
「や…やめ…た、たす…」
震える声で命乞いをするカザラーの額に、その銃口が押し付けられた。
刹那。
「ホームズ、やめるんだッ!」
「ぎゃああッ!」
ワトスンが銃身を掴むのと、銃声が響いたのは、同時の事だった。
□□
石造りの簡素な屋敷は、今やヤードの馬車で取り囲まれている。
白目を剥いて失禁したカザラー伯は、一先ず警察病院へと運ばれていった。
それから、数人の薬物中毒と思しき少年たちが病院へと運ばれる。
「…クスリが抜けても、あれだけの中毒症状だ…復帰できるかが心配だな…」
ワンピースも脱ぎ、化粧を落としてさっぱりした顔のワトスンが、痛々しそうに呟いた。
彼の手には、簡易的に包帯が巻かれている。
怒りに任せてトリガーを弾く寸前で、ワトスンが銃身を掴み、銃口をカザラーから逸らせたのだ。
探偵は無言でワトスンの隣に立ち尽くしている。
その無言が、なんだかよくわからない。
ワトスンは、自分の手に巻かれている包帯を見た。
いつも理性的である探偵の、怖いぐらいの殺気を思い出す。
そして、やはりなんだかよくわからなかったのだ。
「なんで、あのタイミングで君は押し入ってきたんだ?」
「え?」
いつもの無表情で、探偵はワトスンに振り向く。
そして、小さくため息を吐いた。「…あのタイミングを逃していたら、君も不道徳罪で捕まるところだったんだよ」
「そりゃまあ、そうだけど」
言いよどむワトスンに、探偵は大袈裟にため息を吐いてみせる。
「まったく、もう少し物を考えて行動をおこしたまえ。先ほどのカザラーとの取引だって、無謀極まりないだろう」
「…他に思いつかなかったんだよ」
唇を尖らせて、俯くワトスンは拗ねたように答えた。
だいたい、あの状況で他にどんな手が思いつくというのだ。
ブツブツ文句を言うワトスンの顎に、探偵の白くほっそりとした指がかけられ、掬い上げられた。
奇しくも、先ほどのカザラーと同じ体勢になり、ワトスンは大いに戸惑う。
「ホームズ…?」
「………。」
不思議そうにその灰色の眼を見つめていると、その顔が近づいてくる。
やはり先ほどと同じ近さになり、ワトスンは翡翠色の眼を瞬かせた。
睫と睫が触れ合う。
ちかいなーと思いつつも、先ほどカザラーに感じた嫌悪感はない。
親友の意図が分からず、ワトスンは、ただひたすら瞬きを繰り返すだけであった。
急に、探偵の顔が離れ、顎にかけられた手も外されると、探偵は盛大にため息を吐いて見せた。
「…君は、本当に人を疑う事を知らないな」
「なんだよ、それと、これと、なんの関係があるんだよ!」
「………君のその純粋さには脱帽するが、ね」
もう一度、探偵はため息を吐いてみせた。
言葉の意味も分からず、ワトスンは微かに困惑するのは、こんな時だ。
まるで謎かけのような親友の言葉。正解を知りたいが、知ってはいけないような気もする。
「単純って言いたいんだろ」
だから、分からないうちは、追求しないという姿勢が、ワトスンには身についていた。
まだ、時期ではないのかもしれない、と。
「僕は、そこまで言ってない」探偵は、笑って言った。「さて、事件も片付いたことだし、コンチネンタルブレックファーストでも堪能してから帰ろうじゃないか。今回は少しばかり疲れる仕事であったしね」
「いいね!」
ヤードの用意した馬車に、二人は乗り込んだ。
東の空から昇った朝日は、すでに高くのぼり、親友同士の一日を指し示しているかのようだった。
2011.5.16