オタマジャクシ
ただいま、と声をかけながら、外出から戻った探偵は、同居人との共同の居間で、ちょっと変わった光景を目にすることができた。
文机の前には何故か、木製の桶が置かれている。
その桶の前で、半ば書籍に埋もれた同居人である医師が、ウンウン呻っているのだ。
「…桶相手に、何を呻っているんだい、ワトスン君」
笑いを口に含んで、探偵は声をかける。
そして、ひょいと桶の中を覗き込んだ。
中身は、半ばまで張られた水の中に、球形の胴体から伸びた尻尾をゆらゆらと揺らしている蛙の幼生、通称オタマジャクシが鎮座しているのであった。
”鎮座する”と表現したのは、このオタマジャクシには後ろ足がすでに生えてきており、水底でジッとしている様は、正に、”鎮座する”姿に見えたからだ。
「ジョンソン夫人の娘さんから預かったのだね?」桶を見つめながら、探偵は言った。「汽車に乗せられての長旅ご苦労様なことだよ。成長が遅いから医者たる君に、発達を促して欲しいと泣きつかれたのかね?お優しい君は、両生類は専門外だというのに、こうして病状を調べて差し上げているわけだ」
「相変わらず見事だが、緊急性を要するんだよ」
本から顔もあげずに、医師は言った。
「オタマジャクシが腹を上にして浮いていたのを、ネリア嬢が発見して、私のところへ連れて行くときかなかったらしい。お願いだから、助けて下さいと、あの幼い少女に懇願されたら、君だって無碍にはできないさ」
「僕なら、新しいオタマジャクシを捕ってきて渡すがね」
「ところが、子どもというのは、大人には分からない察知する能力がある。別のものを与えても、すぐに気付くさ」
「死に掛けた、オタマジャクシ…ねえ」
もう一度、探偵は桶を覗き込む。黒いそれは、尻尾をゆらゆらさせながら、鎮座している。時折、泳いではいるが。
「…別段、緊急性を要する状態には見えないがね」
「君は冷たいな!水生動物が腹を見せて浮かんでいるというのは、よっぽど状態なんだぞ!」
「…腹を上というのは、所謂、仰向けの状態のことかい?」
「そうだよ、ほら!」
とようやく医師が桶の中を覗き込むと「あれっ!?」と素っ頓狂な声をあげた。
「これは、どうしたことだ?ネリアが連れてきたときは、確かに白い腹を水面に浮かせて、息も絶え絶えだったのに!?」
「…オタマジャクシのバイタルもとったのかね、君は」
呆れ声で探偵が皮肉めいたことを言っても、医師の耳には届かない。
「よかったよ!ネリアも喜ぶよ!これなら他のオタマジャクシと一緒にしても大丈夫だろう!さっそく電報を打ってくるさ!」
「…集団生活が苦だったんじゃないか?」
ぽつりと探偵が拗ねたように、呟いた。「見たところ、随分と身体も小さいようだ。恐らく集団で生活することで、ストレスを身体にためこみ、自らの命を危ぶませたんじゃないのか」
「そうか、では、集団に戻すのは、死に向かわせるようなものだな」
探偵の皮肉めいたジョークに、医師は真面目に頭を抱えて考え込んだ。
「うーむ、ではこのオタマジャクシは一生、隔離されている方がいいというのかね?」
「そうとも、限らないだろう」
パイプを手に持ち、探偵は医師の顔を見ずに言った。「呼吸のあう、最良の友を得られれば、世間を相手にする生活も、彩を加えることになるだろう」
「なるほど!」
医師はポンと手を打って、満面に笑みを浮かべて言った。
「それは名案だ!さすがだな、ホームズ!早速ネリアにそう伝えることにするよ!」
医師は立ち上がると、大股でドアへと向かい、大騒ぎで出て行った。
そして残されたのは、パイプを燻らす探偵だけが。
「…オタマジャクシ一匹に、人のいい医者だな…」
ため息と共に紫煙を吐き出すと、キイとドアが静かに開いた。
見ると、帽子も被り、出かける寸前の格好をした医師が、やはり穏やかな笑顔でそこにいたのだ。
「忘れ物かね?」
「ホームズ」医師は、優雅にウィンクをしながら告げた。「私も、君という最良の友に出会えて、人生が彩り加えることとなったよ。感謝している。ありがとう、ホームズ」
ぱたん。ドアを閉めると、慌しく階段を駆け降りる音が響く。
残された探偵は、ぽかんとパイプを咥えていたが、急にドッ汗が噴出し、頬真っ赤に染めつつも、誰もみていないのに必死で平静をつとめていた。
「まったく」
額の汗を拭いながら、探偵はぽつりと呟いていた。
「不意打ちに、そんな事を言うから、誰もが君を頼るんだよ…ワトスン君」
その人間が欲する言葉を、事も無げに告げることができるのは、医師たる本能なのだろうか。
今日は、その本能がオタマジャクシに向かっているというのが少しだけ、ほんの少しだけ………。
2011.6.25
※鍵ブログの現代設定のものを19世紀版に手直ししました。そのに