クマとドクターと
ドクター・ワトスンの診療所は、結構評判がよかった。
貴族のファミリードクターでもないのに、指名を受けることもしばしばであり、深夜という時間に哀れな使用人が下宿ドアを叩けば、彼はすぐに飛び出していく。
もう一度言うが、彼はファミリードクターではない。
だが、貴族の、それも娘さんや奥方は彼を指名して、使用人に連れてこさせることが、よくあった。
本来のファミリードクターたる医師に失礼ではないかと思うのだが、彼の本質である誠実さや人の好さから、他の医師と衝突することは皆無であった。
だからと言って。
探偵はパイプをふかしながら、懐中時計を見る。
時刻はもうすぐ夜明けをさす。
彼が使用人と共に飛び出して行ったのが、日付が変わる少し前だ。
貴族の娘が、流感の症状で苦しんでいるので、是非にドクターワトスンに診察して欲しいと、訴えているのだという。
たかだか流感の症状で、ここまで時間がかかるものか。
ファミリードクターがいるのだから、そちらに任せればいいものを、この人のいい医師は、請われれば往診へと向かうのだ。
第一、こんな時間になっても帰ってこないとは、どういうことだ。
昼前には自分の診療所も開けるというのに、少しはそのへんも考慮したらどうだ。
人が好いというのは、裏返して言えば、優柔不断だということだ。
そんな医師に身を任せるなんて、患者が気の毒だ。
そうだ、彼は廃業するべきだ。そして、好きな文筆業に精を出すべきなのだ。
そんな事を考えていると、きいとドアが遠慮がちに開いた。
「お帰り、ワトスン」
「…!?…ホームズ?もう起きていたのか?」
誰もいないと思ったのか、ワトスンは大層驚いて、手にしていたものを、ぼとりと落とした。
ドクター鞄にしては軽い音だと思いながら、まだ暗い室内のランプのシェードを全部開くと、ワトスンの足元にあるものがよく見えた。
正体は、クマのヌイグルミであった。
「…ハドスン夫人の誕生日には、幼すぎないかい?」
「え?ああ、違うよ、もらったんだ」
ドクター鞄を床に置き、ワトスンは床に落ちたクマを拾い上げた。
よくみれば、それは精巧な熊の生態をしたものではなく、熊を模しデフォルメされたヌイグルミであった。
それを両手で抱えてみれば、彼の温厚さや優しさが上乗せされ、メルヘンチックな和やかな空間を演出するという、癒し効果が発揮された。
「ハウスメイドのリザに貰ったんだ。手作りらしいよ」
「ふうん」探偵は気の無いように返事をしつつ「…その君が右手に持っているブラウンのスーツを着た熊は…もしかして、君をあらわしているのかい?」
「ご名答!さすがだね!」
ワトスンは嬉しそうに、その熊を探偵に手渡した。
貴族の少女がよく持っているヌイグルミよりは、幾分小さいが、なるほど、ブラウンのスーツといい、優しげな目といい、ドクターワトスンの雰囲気を忠実に再現している。
彼は、ふくよか…とまではいかないが、その腕を広げて受容する姿は、このヌイグルミのように懐の広さを感じる。
だが彼は、ただ優しいだけの男ではない。
敵とみなした輩に、容赦はしない。時には拳銃を駆使してまで、相手を倒すのだ。
それは本人が強い道徳心を持っているからだ。
この愛らしい顔をするヌイグルミのは、本来持つ熊の本能を持ち合わせているとすれば、ただ温厚なだけではないこの医師をあらわすのに、これほど合致するものもないだろう、と探偵は深く思考する。
「よくできているだろう」
医師は、スーツを指差して、楽しそうに笑う。「特に、ここ。よく見ていると思うよ…このポケットの形なんか素晴らしいと思うがね」
「メイドは客の上着をよくみるのも、仕事だからね」
仕事のうちにしても、よく見ていると思う。
この精巧さは、ちょっとやそっとものではない。何か特別な思いをもって、見ていなければ。
「そして、これが君だ」
「え?」
唐突な言葉に、探偵はヌイグルミから顔をあげた。
探偵の視界に入ったのは、ワトスンは自分の手の中にあるヌイグルミを、愛おしいように撫でる医師の姿だった。
「このフロックなんか、君の愛用のあれにそっくりじゃないか。よく雰囲気が出ている」
「…そうだね…」
答えつつ、じっくりと探偵は、自分を模したと思われるそれを観察する。
確かによくできていると思う。
だが、縫い目や処理が、ワトスンのよりも幾分粗雑だ。
ならば、この作者はワトスンを模したヌイグルミをメインに作成したに違いない。
つまり、この探偵を模したものは、オマケなのだ…というよりも、恐らく、ワトスンは自分を模したヌイグルミだけでは受け取らないだろうと踏んで、慌てて、この探偵を模したものを作成したのだろう。
医師は探偵を敬愛しているのは、あの書物を読めば誰でも知ることだ。
ならば、その目的はなんであろうか。
この人の好い医師と懇意になり、何か利用としているとは、考えられる。
例えば、このヌイグルミの材料費を、後から高額で請求するとか。
「これは、店で売れば相当額なものだろうねえ」
探偵が頭を悩ます横で、医師が能天気な言葉をあげる。「まったく見事な細工だ。今度、食事にでも誘わないと悪いだろうな」
「いや、金銭に換算し、それ相当な支払いをする方がいいだろう」
間髪おかずに、即答した。「そのメイドはまだ年頃だ。君のような紳士と食事をすれば、どんな噂がたつとも分からない」
「そんな、食事ぐらいで大袈裟だろう」
「いや、用心した方がいい、という話だよ。特に君は独身なんだ。軽率な行動は慎むべきだね」
「ううむ、言われてみれば、そうかもしれないな」
探偵の言葉を素直に聞き考えを改める医師をみて、小さく安堵する。
「じゃあ」と医師は言った。「どのくらいの金額であれば、妥当かね?」
「君の明後日のダービーの負け分ほどでいいんじゃないか?」
「それじゃあ、小額じゃないか」
「ほう、そうかね?」
鼻をならして、探偵はちらりと鍵付きの文机をみた。
その視線を見て、医師は「明後日のは自信がある!みてろよ、ホームズ!」
「楽しみにしているよ」
画して、ワトスン医師は、相当額をメイドに支払い、恐縮させたのであった。
2011.7.11
※鍵ブログの現代設定のものを19世紀版に手直ししました。そのさん