暖 炉
まだ秋でも冬でもなかったが、肌寒い感じがする。
それを夫人に告げると、夫人は笑いながら暖炉に火を入れてくれた。
ドクターの足は、季節に敏感ですものね。
夫人は笑いながら、優しいフォローをしてくれる。
ぱちぱち…と暖炉の炎は赤々と踊っている。
その自然の芸術は、何時まで見ていても、飽きない。
近づきすぎると、熱郛が顔を焦がすようだ。見えない壁に圧し戻されるような感覚で。
その踊る炎は、ゆっくりと薪を灰にしていく。
加工されたものでなければ、炎は物体を焦がし、灰へと変えてゆく。
炎。
数年前。妻は死んで土へと還ってしまった。
彼女のあの愛らしい顔も、綺麗な手も、白い足も、体も、その総てが動かなくなり、冷たくなり、そして棺へと収まってしまった。
あなたは、暑さに強いけど、寒さには弱いのよね。
彼女の声は、今でも鮮やかに思い出せる。
きっと、暖炉に火が入るのは、ロンドンの中でウチが一番ね。
君のあの笑顔を見ることは、二度と出来ない。
私のせいで。
私が、私がもう少し、しっかりしていれば、君に心労をかけなかった。
親友を亡くしたと落胆する私を、君は笑顔を絶やさずに励ましてくれた。
私は自分ばかりで、君を抱きしめることすら、忘れてしまっていたと思う。
最後まで、笑顔でいた、愛しい君。
ああ、メアリ。私の聖母よ。
私が君と結婚してしまったばっかりに、君は得る筈だった幸せを手に入れ損ねたのではないだろうか。
赤々と萌えつづける、暖炉の炎。
貴方が凍えよ無いようにと、君はいつも火を絶やさずにいてくれた。
君は、温かな私の命の火だった。
時には私を叱り、私を慰め、私を癒してくれた。
もしかしたら、まだ君は、この炎の中にいたりしないのだろうか。
もしくは
君の住まう世界が、この炎の向こうにありはしないか。
手を伸ばしてみる。
暖炉の炎、その熱風がまるで手を焦がすよう。
だけど、だけど、こんな風に、例えば、炎の中に君がいたら、私は君に触れられたりしないのだろうか。
熱く、熱く、皮膚が焦げてゆくのを、ぼんやりと眺めていた。
もう少し、手を伸ばしてみれば、もしかしたら。
もっと、近づけば、あるいは。
「……ホームズ…?」
ものすごい勢いで、私は暖炉から引き離された。
伸ばした手が、ジンジンと痛む。火傷したのかと、他人事のように思う。
見上げると、親友のホームズの顔があった。
「まったく、自ら火傷を負うなんて、君はそれでも医者かね」
呆れ声で捲くし立てながら、親友は私の手に軟膏を塗布し、油紙をのせて包帯を巻いてゆく。
ああ、今は彼がいる。そう思えば、私の心は安らいだ。
誰かを常に欲するなど、なんて私は弱い人間なのだろう。
「すまない、ホームズ」
私は素直に謝ることにした。「なんとなく…メアリに会えるような気がしたんだよ」
彼は「そうか」といった。「暖炉の中に、メアリ嬢はいないよ、ワトスン君」
「そうだな」
そうだ、当たり前だ。
炎の中にどれだけ手をのばしても、そこにメアリがいるはずがないのに。
「当然だな……」
私は、小さく呟いた。
赤々と燃える暖炉に、入って行くところに見えた。
彼は薄っすらと笑みすらも浮かべながら、暖炉の中へ身を投ずる寸前に見えたのだ。
血の気が引いた。無我夢中で、彼を暖炉から引き離した。
行こうとしていたのは、すぐに分かった。
暖炉の炎に焼かれ、彼は愛する彼女の元へ逝こうとしていたのだろう。
止めなければよかったのだろうか。
その方が、彼には幸せだったのだろうか。
「すまない、ホームズ」
謝罪する彼に言葉がでない。触れたらこのまま脆く崩れてしまいそうな彼に、何と言えばいい?
わからない。僕には、分からない。
だから。
探偵は、包帯を巻き終えた親友の手を、ゆっくりと撫でた。
代償であるのだ。彼を騙した3年間、自分が彼の世界を壊してしまった。
これは、その、代償なのだ。
何処にもいかない。だから、君もここにいてほしい。
そんな懇願に近い思いを胸に、優しく、なるべく温かに告げる。
「ワトスン君…一人で逝くには、早すぎやしないか…」
「縁起でもない事を言うなよ」
目の前で、彼は笑って言った。「私が死ぬわけがないじゃないか、ホームズ」
「…そうか…」
彼の言葉に、胸が痛くなる。
もっと、僕を利用すればいい。
お願いだから、一人で抱え込まないで。
どうしたらいいのかなんて、分からない。
君を救う手段が、僕には分からない。
暖炉は、静かに、燃えている。
2011.10.16