賭け事

 ドクターワトソンと言えば、穏やかな気性、優しい医者というイメージが強い。
 だが彼はあれで実は、賭け事が好きなのだ。
 特に競馬。
 彼は血統等を詳しく調べるくせに、券を買う決め手は、彼の勘なのだ。
 結果、当然のような気もするが、彼の財産は眼に見えて減っていく。
 あまりに酷い負けようなので、僕はついに彼の小切手帳を没収した。
 以来、彼の小切手帳は、僕の鍵つきの引き出しの中で眠っている。



 競馬はそれで節度ある遊び方になったが、賭け事好きの人間というのは、何故にこう何でも賭けの対象にしてしまうのか。
 彼の好きな撞球もその一つで、興がのってくると、必ずと言っていいほど賭けに出る。
 だがまあ、彼は撞球はそこそこ巧みであるし、勝敗も半々だ。
 賭ける相手も、クラブ仲間のサーストン、隣人の同業者であるアンストラザー、彼の出版代理人のドイル、そして僕と彼との出会いを作ってくれたスタンフォード…こんなものだろうか。
 彼らはワトソンの気性をよく知っていたし、無茶な賭けをしない事で、僕は安心しきっていたのだ。

 あれは、僕がヤードの事件を解決した次の日であっただろうか。
 例によって自堕落な気鬱に陥った僕を置いて、ワトソンは撞球へと出掛けてしまった。
 事件後に襲う気鬱の暗澹たる自堕落ぶりは、傍にいる者ほど、憂鬱になるものだろう。
 それはよく分かっているが、だが、僕を置いて遊びに行ってしまった彼に対し、僕は些か腹を立てていた。身勝手ではあるが。
 だから、彼が重い面持ちで帰ってこなければ、嫌味の嵐を浴びせてやろうと意気込んでいたぐらいだ。
「どうしたんだね、ワトソン君」
 あまりに暗い表情の彼に、僕の嫌味は吹っ飛んでしまった。
 それぐらい、酷い顔だったのだ。
「実は…いや」
 なんでもない。そう嘯いて、彼はどさりとソファーに身を沈める。
 どうみても”なんでもない”という仕草ではない。
「撞球で賭けをしたのかい」
 僕の言葉に、彼は大袈裟なほど体を震わせて、僕の眼を凝視した。
 翡翠色の彼の眼が「どうして、分かったんだ」と語っている。
「金ではないのだろう」」僕は言った。「何故なら、君の小切手帳は僕の引き出しの中であるし、君は財布を忘れて行った」
「…ああ、うん、そうなんだ」
 彼はらしくなく、弱弱しい声で笑って言った。「そうなんだよ。それなのに僕は、賭けをしようって…負けてから財布を忘れた事に気付いてね…だから、スタンフォード君が、御代は僕の身体で払ってくれればいいって…」
「なんだってッ!?」
 僕は思わず身を乗り出していた。
 身体で払うとは、どういう意味なのか。
 まるで娼婦の決まり文句のような言葉に、僕の思考は痺れて麻痺を起こしているようだった。
「だから」
そんな僕の思考に気付かず、ワトソンは小さく笑って「もしかしたら、一両日中にスタンフォード君に呼び出されたら、僕は何をおいても、彼の元へ馳せ参じなければならないんだ。…だから、ホームズ、もしかしたら、君に不快な思いを…」
「大いに不快だね」僕は立ち上がって、彼の目の前で仁王立ちになる。「まったく、君の浅はかさにはモノが言えないよ。何故、財産を持たない人間が賭け事をするのだね、しかも身体をかけるなど、紳士にあるまじき行為じゃないか!」
「だから、すまない…」
「謝って済む問題かい!?」
 僕の言葉に、彼は深く沈んでしまった為、その日はそれで終わりとなった。

 明朝。
 いやに騒々しいと思ったら、ワトソンの寝室のドアが閉まる音がした。
 続いて、足早に階段を降りる音。
 まさか。
 僕は跳ね起きると、急いで労働者の格好をして窓から飛び出した。
 丁度、彼が玄関から出てきて馬車を拾うところだった。
 朝霧が濃く街を包んでいるのに乗じ、僕は馬車に近づくと、その後部にしがみつく事に成功した。
 馬車は程なく停車し、ワトソンが降り立った。
 そこは、聖バーソロミュー病院。スタンフォードの勤め先であった。
 ざわりと、僕の中で嫌な音がする。
 その音の正体を無視し、僕は警戒心というものを知らぬ、親友の後姿を追いかけていた。
 仕事を手伝わせる、とかいう類にしては、ワトスンのあの落胆振りは異常だ。
 それに、スタンフォードがワトスンを尊敬し、敬愛しているのは知っている。
 まさかとは思うが、その敬愛ぶりが暴走し、紳士としてあるまじき…いや、この大英帝国の法を犯すような愚公を強要するのではないか、と僕は心が張り裂けそうだった。
 あのワトスンが、そんな愚行を…いや、彼は紳士だ。賭けに負けた代償がそれであるなら、恐らく拒みはしない。紳士に二言はない。
 廊下を音を立てずに進み、ワトスンを捜す。
 その研ぎ澄まされた聴覚に、相棒の声が飛び込んできた。
 いた。もうすこし先だ。
 そして、僕の聴覚には、もう一人の声さえも。

「さあ、往生際が悪いですよ、ワトスン先生。貴方は今日一日僕のもなんですよ!」
「そ、そりゃ…そうなんだけど…でも、私には無理だよ…第一…」
「言い訳は聞きません。さあ、時間がないから、早く脱いでください」
「…うう、わかったよ…お手柔らかに頼むよ…」

「ワトスン!」
 僕は木戸を勢いよく開けた。
 勢いがありすぎて、扉が壁にぶつかり、ばあんと酷い悲鳴のような音をあげた。
 中にいたのは、予想通り、スタンフォードとワトスンだった。
 半裸で呆然とこちらを見るワトスンの姿を見て、僕の頭にはこれ以上にないぐらい血が昇り、あまつさえ沸騰したかのような烈しさが駆け抜ける。
「君たちはそれでも紳士かね!?早朝から、そのような格好で如何わしい!恥知らずもいいところだ!ワトスン!元はといえば、君がくだらない賭け事なんぞに夢中になるのがいけないんだ!君をベーカー街の下宿に閉じ込めて僕の監視下におかないと、君の破滅を食い止める道はないようだな!くだらない!金なら僕がいくらでも払うよ、スタンフォード!さあ、ワトスン帰るんだ!!」
「ちょっと、待ってください!」
 僕の剣幕に声を失くして見上げていたスタンフォードだったが、ワトスンの腕を掴んで廊下に引きずり出そうとするのをみて、慌てて、僕の前に立ちふさがる。
「困りますよ、ホームズさん!今日はもう、ワトスン先生に居ていただく段取りを組んでいるんです!」
「そんなの、僕の知ったことか!」
「脚部開放骨折の切断術が、どれだけ迅速を要するか、貴方だって知っているでしょう?」
「な、に?」
 よくよく見れば、彼らがてに持っているのは、手術着である黒いモーニングであった。
「ほら、早く!ワトスン先生!」
「でもね、僕がメスを最後に握ったのは…」
「早くして下さい!もう30分になります!」
「わ、わかったよ」

 バタバタと二人は着替えて行ってしまった。
 なんてことはない。つまり、スタンフォードは手術補助をワトスンにさせようとしていたのであった。





 目まぐるしい一日を追え、ワトスン医師はバーツの裏口から出てきた。
 勤務医の経験はないが、総合病院の医師とはこんなにも忙しいものかと、同じ医師であるワトスンは感心するのであった。次から次へとやってくる患者の処置を、スタンフォードと共に処置してゆく。あの戦場ほどではなかったが、考える暇もなく、切断し、縫合し、判断するのに体はついていかない。
 それをこなすスタンフォードに尊敬の念すら抱き、ワトスンは今日一日の任務を終えた。
 なんだか賭け事の負け以上に働いた気もするのだが…。
 薄暮の迫る倫敦の町並み。家路を急ぐ人並みの中、まるで、ぽつんと置き忘れられた何かのように、彼はそこに立っていた。
 それが同居人であることを知ると、ワトスンはそれこそ眼を見開いて、彼の名前を呼ぶ。
「ホームズ!迎えに来てくれたのかい?」
 駆け寄ったワトスンは、すぐに気づいた。同居人の足元にある、夥しい数の吸殻に。
「…ここに来たのは、2時間ほど前だよ。随分と急患が多かったようだね」
「ああ。まったく、スタンフォードがあんなに人使いが荒いとは知らなかったよ」
「ワトスン君」
 探偵は、ついと視線を逸らした。そして、呟くように言葉を紡ぐ。
「君の性分は医師だ。それは僕も認めるよ…どうなんだい、スタンフォードが今回、君を引っ張り出したのは、君にバーツの専属になってほしいからじゃないのか?」
 探偵の言葉に、ワトスンは小さく息を呑んだ。
 その小さな音を聞いて、探偵は奥歯を噛み締める。
「君は」そして、ワトスンは困ったように息を吐き出した。「これ以上、僕に過労を強いる気なのかい?僕は君のボズウェル兼相棒で精一杯だよ」
 それとも、君は僕をクビにするのかい?
 ワトスンの言葉に、探偵は視線を彼に戻す。
 いつも彼だ。いつもの同居人の彼の表情。
「クビになんてできるものか。僕の相棒でありボズウェルであり、親友は君しかありえないよ」
「そいつは良かった」
 ワトスンは、腕を差し出してきた。そして不器用にウィンクをしてみせる。「超過勤務で疲れているんだが、レストランに行く体力ぐらいは残っているよ、ホームズ。僕はまだ今年のボジョレー・ヌーボーを飲んでいない」
「仕方がない。激務の親友を労ってしんぜよう」
 探偵はその腕に自分の手を絡ませた。
 そして、親友同士は、クリスマスに沸き立つ美しい町並みの中へ溶け込んでいく。
 気心の知れた同士、それは、とても、幸福そうに。











2011.11.30