贈り物
失意に沈んだ心持で、ワトソンは居間へと帰って来た。
本日、同居人である、名探偵シャーロック・ホームズの生誕の記念日である。
朝から祝電が舞い込み、有名デパートからの宅配もひっきりなしだ。
皆、探偵ホームズに危機を救われ、平穏な日常、或いは愛情を家族を取り戻した者なのだ。
だから、ホームズがこの世に生まれ出でた日を、心ばかりの品で、または言葉で祝福したいと願うのは、当然の心だろう。
「それなのに、僕ときたら…」
めでたい祝いの席にそぐわぬため息を、ワトソンは落とした。
先週まではしっかりと覚えていた、親友ホームズの誕生日。
だが、言い訳をすれば、捜査と本来の職である医業、加えてストランド誌の締め切りに追われて、今日まですっかり失念していたのだ。
更に、当日になって届く贈り物の数々を見れば、更に重いため息が吐き出される。
祝電は労働階級や中流の依頼人からのが多い。
つまり贈り物をしてくる依頼人は、どれも爵位を授かった由緒或る人間からであった。
そんな人物が贈る、数カラットのダイヤのピアスや、小さいながらも本物の宝石たちが花のように散りばめられた懐中時計などを上回る品を贈れるものか。
感冒が流行の兆しをみせはじめていた為、幼い子どものいる家庭を中心に往診に回っていたワトソンは、疲弊した体に鞭打って、一度は贈り物を買いに街へ出たのだが、結局のところ、付け焼刃なウィンドウーショッピングでは親友にあった贈り物をみつけられず、結局は冒頭に戻ることとなったのだ。
居間には、ハドソン夫人の心づくしの料理が並び、奥の席に祝電を眺める探偵の姿があった。
「お帰り、ワトソン。待っていたよ」
「マイクロフト氏は?」
「ああ、兄は急用で来られないそうだ……ワトソン?」
訝しげに、探偵はワトソンの名前を呼んだ。
彼は外套も脱がずに、俯き加減に突っ立ったまま動かない。
「…ごめん、ホームズ」
搾り出す声は、情けないほど震え、彼が自身に失望しているというのがよく分かった。
「せっかくの誕生日だというのに、僕は君への贈り物を用意できなかった。親友とはよく言えるよ、我ながら情けない」
「何を言っている」
ぷ。と小さく噴出して、探偵は立ち上がった。
そして、立ったままのワトソンの傍へ来ると、彼の手を握る。
「冷え切っているな」探偵は手を慰撫するように撫でた。「僕の親友が、今年も僕の誕生日を祝ってくれる…一緒のディナーをとり、そして一緒に紅茶を飲んでくれる…こんな素晴らしい時間を君はくれるのに、何を恥じるんだ?」
「そんなの、いつもの事じゃないか」
「じゃあ、言い方を変えよう、ワトソン」
探偵は手をそっと離すと、ワトソンの外套のボタンを丁寧に外し始めた。
「僕の誕生日の贈り物は、君自身がいい。僕の連れ合いのように、ふるまってくれないか」
「はあ!?」
するりと外套を脱がされ、ワトソンはその翡翠色の眼を見開いた。
それを楽しそうに眺めながら、探偵は自分の右頬を指差して「先ずは、ただいまのキスを、ハニー」
「じょ、冗談はよしてくれ!」
「怒った顔も可愛いよ、ハニー」
「ホームズ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るワトソンは、逡巡した後に、探偵の手を持ち上げた。
そして、その手の甲に、ゆっくりと口付けを施す。
「…お誕生日、おめでとう、ホームズ」
「ありがとう、ハニー」
「…ハニーはよせ」
クスクスと笑いながら、では乾杯をしようと、探偵はワトソンを席に促した。
夜はまだ、はじまったばかりだ。
2012.1.8
※イメージはロシアの二人