同居人の誕生日
それは、楽しい時間であった。
ハドソン夫人が豪華な料理をたくさん作ってくれ、診療所のナースやなじみの患者家族も呼んでの楽しいパーティーであった。
誰もが笑顔で「ワトスン先生、おめでとう」と握手をしてくれる。
笑いに溢れた幸福な時間は、ジョン・H・ワトスン医師のバースデーパーティであった。
客人が帰宅し、ハドスン夫人が一階の灯りを落としても、ワトスンはソファーに座り、目を閉じていた。
楽しいパーティーの余韻に浸っているのか、口元は柔らかに笑ってはいたが、その視線は一点を見詰めている。
それは、ここにはいない、同居人のソファーであった。
もう半月、彼は海向こうの花の都へ出向いている。
彼の兄からの依頼であった為、今回の捜査にワトスンは同行を赦されなかった。
恐らく国家間に関する秘密裏の事件なのだろう。
そんな公にならぬ事件であるのなら、暗躍する人物も素人ではなく、それを生業とする手練れである。つまり、プロ。
政府高官を守護する人間が二人、かの探偵についているとマイクロフトは言っていたが、それでも心配はつきない。
身辺警護はもとより、あの探偵は、一度捜査活動に入れば寝食を忘れて没頭してしまうのだ。
いつかの事件のように、解決と同時に倒れてしまったりしないだろうか。
いや、事件解決後ならいい。
犯人との捕り物の最中に、ヘマをやらかしはしないだろうか。
つきぬ心配をここでしても仕方が無い。分かってはいるが、こんな時、一人でいる夜には、どうしても。
早く戻ってきてはくれないだろうか。
そのソファーに座り、事件のあらましを、聞かせてはくれないか。
ふと、階下が僅かに賑やかになった。三回のドアベルの音。
ワトスンが廊下に出て階段を半ばまで下ると、笑顔のハドスン夫人が「丁度、よかったわ」と笑って言った。「先生宛に、電信ですよ」
「電信?」
「あの方からですよ」
はしたないですけれど。断りをいれてから、ハドスン夫人は電信を手渡してくれた。
それでは、おやすみなさいませ。
一礼して、彼女は自分の寝室へと向かう。
手渡された電信。それは、あの方。シャーロック・ホームズからであった。
ハッピーバースデー ワトスン ショクジ モ スイミン モ トッテイル
その文面に、ワトスンは苦笑した。
それは先ほどまで危惧していたことへの回答であったかのようで。
「そいつは、よかったよ、ホームズ」
微笑みながら、彼は文面に告げる。
探偵が元気で捜査活動をしている。それが、何よりも嬉しい。
その言葉を、彼からのバースデープレゼントにしておこう。
電報を持って、自分の寝室へと戻ったワトスンは、それを枕元に置いた。
「おやすみ、ホームズ」
電信紙をそっと撫でて、ワトスンは微笑みながら、眠りにつく。
2012.8.8