ある昼下がりの出来事

 「まったく。君のように、期日にだらしない医者を主治医に持った患者は、まったく不幸極まりないね!効果を失った古い薬を処方されでもしたら、治る者も、悪化してしまうよ!」
 愛用の籐椅子にふんぞりかえりながら、探偵は演説でもするように、手を広げて声を張り上げていた。
 だが、たった一人である聴衆は、現在、机に向かいながら忙しくペンを走らせている。
  「ご心配なく」顔もあげずに、医師は言った。「本業では、細心の注意を払って診察している」
「どうだか!」
 ハッ!と短く笑い、探偵は立ち上がると、忙しなく室内を右往左往しはじめる。
「君は往診に時間をかけ過ぎるんだ!昨日は、またオーグステンの老人につかまったね!彼の世間話は長いんだから、早々に切り上げるべきだ!それを、締め切りを抱える医者は、言葉を遮る事無く、同じ話を三回も聞いているんだから!」
「それが彼の楽しみなんだ。治療の一環だよ」
「その結果がそれか!」
 探偵はぴたりと立ち止まり、医者の背中へと近づいた。「時間はもっと有効に使うべきなんだ!分かっている締め切りに合わせて、準備を怠らなければその期日直前に慌てることもあるまい」
「ホームズ、少し黙っていてくれないか」
 顔も上げずに、フールスカップに吸い取り紙を押し付けながら、医者は言う。
 その言葉に、探偵は唇を引き締めて表情を歪めると、また室内を、苛々と歩きはじめた。
「まったく君は、観察眼もない、想像力も欠如した、ただくだらないロマンスばかりを好む連中を相手に事件記録を捻じ曲げて、喜ばせようとしている!何故そんな必要がある?メリットもない活動は、やめるべきだとは思わないのかね!」
「僕の活動へのあら探しは、あとにしてくれないか、ホームズ」
 軸に新しいペン先を付け替えながら、医師はやはり紙だけを見詰めながら言った。「メリットを言わせてもらえば、君の素晴らしい能力を世間が認め、誉と高く評価してくれただろう」
「そんな事ではではない、ワトスン!」
「とにかく」医師は、またも紙にペンを走らせながら、言い放つ。「少し、黙っていてくれ。もう30分もすれば完成するから、だから…」
 そこまで言って、初めて医師は探偵の方を見た。
 そして、しまった、と内心で自分の失態についての感想を漏らす。
 探偵の表情は、これ以上にないぐらいに、怒りでゆがめられていた。…そう、見えた。
 視線が交じり合った瞬間、探偵は踵を返し、居間と廊下を繋ぐドアを開けた。
 大音響と共に閉められたドアをみて、医師は深く、深く、ため息を落とす。
「…先ずは、仕上げるか」
 床に散らばるフールスカップを集め、医師は椅子に座りなおした。



 ペルメル街にあるクラブの入り口を通り、医師は軽く室内を見渡した。
 広い室内は、結構な人数の男性で占められていたが、驚くほどの静寂だった。
 柔らかで気持ちよさそうなソファーに沈み、思い思いの表情で男性たちは雑誌を読み耽っている。
 その中で目的の人物を見つけ、医師は軽く安堵の息を吐いた。
 先程機嫌を損ねた探偵が。
 表情は他のものに比べて険しく、眉間に皺を寄せている。
 医師は静かに探偵に近づいたが、探偵は顔をあげることなく、雑誌を読んでいる。
 いや、読んでいるフリに違いない。
 医師は彼の目の前に立った。
 そして、顔をあげることのない探偵の目の前に、直筆のメモを翳して見せた。  フールスカップの切れ端に書かれた数個の単語を見、探偵は眉をひょいと上げると、仕方がないと言わんばかりに息を吐いて立ち上がる。
 そして、クラブの入り口へと向かった。
 その後を、医師は慌てて向かう。
「牡蠣を奢ってくれるのかい」
 クラブから出て、開口一番、探偵は不機嫌そうな声色でそう尋ねていた。
「ああ、さっき持っていった小説の印税が入るはずだからね」
 医師の言葉に「気が早いな」と探偵は答える。「それにしても、よく僕がここにいると分かったね」
「うん、まあ、勘…かな?」
「君の勘も強ち、侮れないねえ」
「そうだろう?」
 探偵の口調と表情から、彼の機嫌が直ったのを感じ取り、医師は心の中で盛大にため息を吐いた。
 まるで子どもだ。
 探偵をそう評価し、医師は密かに笑ってしまう。
「何を笑っているんだい、ワトスン君」
 それを目敏く見つけ、探偵は「僕は、そんなに子どものようかね?」と医師の心を正確に読み取る。
「そんなことは、ないよ」そう、医師は答えた。「君は、英国が誇る誉れ高き諮問探偵さ!」
「どうだかねえ」
 いぶかしむ様に探偵は医師の顔を覗き込み、探るように見詰めてくる。
 灰色の眼に翡翠色の眼が、ワトスンの瞳にホームズの瞳が映っている。
「まあ、今日のところは”コレ”に免じて不問にしておこうじゃないか、ワトスン君」
 探偵の右手に、ひらひらと踊る紙片。
 それは先程、医師が彼の目の前に翳してみせたものだった。
”わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。" (ダビデのミクタムの歌)”




(終)



2010.9.12