口説く
ほんのちょっとした、出来心だったのだ。お互いに。
女性は君の担当だ。
そう言い放ちながらも、この諮問探偵の”捜査のためであったら、騙す事も厭わない”姿勢には参ってしまう。
嘘泣き、嘘共感、嘘感動、嘘友人…言葉としてはおかしいが、つまりそういうことなのだ。
人を騙して真実を掴む。
それが正しいのかどうかは分からない。いや、正しくはない。だから、警察は本音や真実に踏み込めず、騙されて語ってしまった事実を知るのは、騙した探偵だけなのだ。
厄介このうえなし。
今回など、婚約までしてしまい、大変であった。
まったく。紳士としてあるまじき行為である。
そんなわけで、探偵の同居人は酔っ払っていた。
一週間強、駆けずり回って得た報酬の一部であるアルコール。
その一つが、同居人である彼のお気に入りのビーフィータだからだ。
「だいたい、よくもまあ、婚約に持ち込めるほど口説き落とせたなあ」
ソファーに身を沈めながら、彼は呟き笑う。
酒に弱いわけではないが、普段はトニックで割るジンをストレートで飲んでいるせいだろうか、若干呂律が回っていないと、諮問探偵は観察しながら考える。
ちなみに、探偵はドメーヌ・ドーヴネのボンヌ・マール。最高のブルゴーニュとしても選ばれたことのあるワインだ。
「雰囲気を作り、言葉を選べば簡単なことだよ。ワトスン君」
事も無げに、探偵は言ってのけた。
それを聞いて、立ち上がったのは、彼だ。
手にしたグラスを仰ぎ空にすると、とん、とローテーブルに置く。
「言ったな、名探偵」ニヤニヤ笑いながら、彼は顔を近づける。「君の色気がどれほどのものか、見てみたいものだ。是非とも、私に試してくれ」
彼の言葉に、探偵は大きな息を吐いた。
その上品な吐息が、彼の頬を掠める。
「…ワトスン君、君は酔っている」
「いいだろ、ホームズ」
いつもよりも下品な口調。医師というよりも、戦場を生き抜くことに貪欲な兵士のような。
探偵は、もう一度ため息を吐くと「じゃあ」とワイングラスをローテーブルに置いた。
そして、彼の頬を左手で包み、探偵は首を傾げる。
「ッ!」
彼は自分の言葉を、深く後悔した。
探偵のグレーの目に射竦まれ、言葉を失う。
それは情と欲を孕んだ眼差しであった。
いつもの鋭利な観察眼とは違う、熱く纏わりつくような情が全身を嬲るようで、彼は身震いをする。
右手で探偵はゆっくりと自身のシャツを緩めていった。
露になる白い首筋と鎖骨は美しく、その衿の開き方が艶かしく、彼はごくりと生唾を飲む。
「…ジョン…」
「ッあ…!」
肌を露にした右手が、今度は彼のシャツのボタンにかかる。
艶やかに呼ばれた名前に、彼は息が詰まりそうだ。
「君は、僕の心を弄ぶ天才だな…僕がどれほど君の肌に触れたかったか…君には分かるまい…」
「ま、て…ホームズ…ッ…!」
つう、と探偵の白く細い指が彼の肌を直になぞる。
「愛しいよ…僕のジョン…」
吹き込まれる言葉に、彼はバランスを崩した。
膝がわらい、とても立っていられる状態ではなくなった。
バランスを崩した体は探偵に抱きとめられてしまう。
「さあ、どうだ?こんな感じで口説けば、君はおちてくれる?」
耳元に囁かれた言葉に、彼の顔はかぁと赤く染まる。
「ああ、見事だ。詐欺師にもなれそうだね」
彼は慌てて立ち上がり、自分のシャツのボタンを留める。
シャワーを浴びてくると告げて去る彼の背中を、探偵は見た。
そして、自分の手を見る。
彼を、抱きとめた、己の手を。
2013.6.19