予感

「…あ…」
 思わず呟いた声に、看護婦が振り向いた。
 不思議そうな顔をする彼女に「なんでもないよ」と医師は返す。「用事を思い出したんだ」
「お急ぎなんですの?」
 年配の看護婦は、伺うように医師の顔を覗き込む。
 思わず顎をひいて、医師は「ああ」と答えた。「急いだほうがいいか、な?今日はこれでおしまいにしてもいいかな」
「では、皆に伝えてきます」
 看護婦も身を引くと、スタッフ室へと引っ込んだ。
 医師は軽く安堵の息を吐くと、机の下に置いてある愛用の診療鞄に、外傷薬や麻酔液、モルヒネ等を手当たり次第に突っ込んだ。
 数人のスタッフが、帰宅するのを見届けてから、医師は自分の診療所のドアを開けて施錠する。
 見る人がみれば、顔色は悪く真っ青だった。
 医師は鞄を小脇に抱えると、あたりを見渡して、診療所近くの路地を丹念に覗き込んでいた。
 自分の行動に根拠はないことを、医師は知っていた。
 だが、確信はあった。
 医師は探偵のこととなると、何故だか鼻が利く。
 陳腐な言葉で言えば、通じ合うものがあるのだと、思っている。
 彼に関する情のような物が、互いを見えないもので繋ぎ合わせ、他人よりも濃い関係を繋いでいる。
 だから、感じるときがある。
 例えば、今のように。

 ホームズ、君はそれを根拠のない馬鹿げた行動だと、笑うかい。

「ホームズ!」
 四つ目に覗き込んだ路地だった。袋小路になっているそこは、吹き溜まりのように酷い悪臭を放つ汚物や腐敗物が地面を埋め尽くしている。
 その中に彼はいた。床に座り込み、壁を背にして左肩を押さえている。
 いつもは皺一つないコートは滅茶苦茶に汚れ、ハットも無残な形に変えていた。
 前髪が落ちかかる額には、血の筋が細く流れて、彼は気だるそうに眼を開くと医師を見上げて笑っていった。
「ワトスン君…今、君の患者として伺おうとしていたのに…わざわざ往診に来てくれたのかい」
「…黙って…」
 額にかかる前髪を掻き揚げ、そして軽く頭部に触れる。
 右前頭部に、軽い挫傷を認めた。それから、右肩に銃創。左腕に何箇所か打撲にある。
「診療所に行こう」
医師の提案に、探偵は笑いながら拒否を示した。「まだ、動けないんだよ、ドクター」
「肩をかすさ」
「ここで、いい」
「…ここは不潔だ」
「そうだね」
 くっくと声を押し殺して笑う探偵に、医師はため息を吐いた。動くのが辛いのかもしれない。
 そう判断し、医師はこの場で出来る限りの処置をすることに決めた。
 戦場での処置を思えば、なんてことはない。
 頭の中で探偵のカルテを復唱しながら、医師は処置を始めた。
 右肩に麻酔薬を注射し、銃創を切開する。
「…今日は、忙しかったようだね」 掠れた声で探偵は言った。「タイの曲がり具合が朝と一緒だ…親切な看護婦が直してくれる暇もなかったのかね…色男が台無しだよ」
「黙って」
 もう一度、医師は制した。だが、探偵の言葉は止まらない。
「今日の往診は馬車を使わなかったのかい…随分と靴が汚れている…ああ、オーガステンの老人はまだ元気なのか。君は本当に辛抱強いドクターだな」
「ああ、そうだよ」
 探偵の肩に食い込む銃弾を、摘出する。赤く染まった銃弾を、医師は地面へと落とした。
 こつん。小さな音がして、地面を転がる、赤い銃弾。
「ああ、ありがとう、ドクター」
 囁くような言葉に、医師は縫合をしながら息を吐いた。「僕が来なかったら、どうするつもりだった」
 言葉に、探偵は答えなかった。
 包帯を巻き終え、探偵の顔を覗き込むと、彼は実に穏やかな表情で眠っていたので、医師は大いに呆れてしまった。
「…普通、こんな所で、眠るかね」
 安心しきった探偵の表情に、もう一度、医師は息を吐く。
 続きは、下宿に戻ってからにしよう。
 そう判断し、医師は馬車を拾うために、通りへと急いだ。




(終)


2010.9.15