回想
※グラナダドラマ版『ギリシャ語通訳』の捏造補完です。
「助けられたかもしれなかった」
駅から帰る馬車の中。
ぽつりと呟いた友人の声に、探偵は聞こえないふりをした。
ガタガタと揺れる馬車と車輪の奏でる騒音は、馬車内の会話をかき消すのが容易だ。
だが、探偵は、彼の言葉を聞き漏らすわけがない。
それなのに。
探偵は先ほどから眼を瞑り、微動だにしていなかった。だから、その友人の言葉を聞き流すのも可能だった。
友人は、聞こえなかったと思ったらしく、小さな、深いため息をついた。
「助けられたんだよな、本当は」
友人の声。
先ほどと変わらぬ大きさだから、きっと独り言のつもりだろう。
「私は、本当に臆病だなあ」友人は呟いていた。「一体、何のためにココにいたんだ…勇気を出して身を素早く乗り出せば、あの犯罪者は助かったに違いないのに」
それは、先ほどの事件のクライマックス。
個室から逃げ出そうとした、凶悪なる犯人は外部へのドアを開けてしまい、そのまま無残にも命を落とした。
友人は犯人が死ぬ直前に手を伸ばしたのだ。
その凶悪なる犯罪者に手を差し伸べて、自分の下へ引き寄せ、助けようとしたのだ。
一歩間違えれば、自身をも巻き込まれるというのに。
彼は、一つの迷いもなく、犯罪者に手を伸ばした。
探偵の心臓が、一瞬にして凍りついた。
腕を伸ばし、友人が犯罪者に触れるのを、探偵は阻止した。
巻き込まれてはいけない、危険だ。だから。
だから。
それでも、どうして君は、手を差し伸べた?
最悪の事態が恐怖と共に、探偵の明晰な頭脳をのみこんだ。
友人が犯罪者の手を取る。だが犯罪者はにやりと笑い、そしてワトスンを自分のほうへ引き寄せて、共に命を散らす。探偵の目の前で、犯罪者と共に。
ああ、それは実に、ワトスン君らしい。
犯罪者であろうとも、手を差し伸べて助けようとする、彼はまさしく医師なのだ。
だが、だからこそ、あの薄汚い残酷な犯罪者に近づけてはならない。
食い破られて、しまうから。
「君は、悪くない。悪いはずがない」
眼を瞑ったまま、探偵は友人の手を握る。
驚いたように、隣に座る友人は「ホームズ?」と探偵の名前を呼んだ。
探偵は答えず、握る手に力を篭める。
2010.11.23pixiv掲載