軍服
私の親友であるシャーロック・ホームズは、これ以上にないぐらいに不機嫌だった。
私が居間に入った時から、彼は椅子で膝を抱えてパイプを吹かしている。
その白煙が、まるで霧のように室内に漂い、知らぬ者が入ってくれば、火事かなんかと間違えてしまいそう。
だが、我らが下宿の夫人は、その煙を一瞥したただけで、朝食をワゴンから運んでくれた。
そして彼女は私を見て「まあ」と顔を綻ばせてくれた。「先生、よくお似合いですわ!」
「ありがとう、ハドスンさん」
「ホームズさんも、内心はそう思っていらっしゃる筈ですわ」
「…そうですかね」
苦笑しながら、私はハドスン夫人にお礼を言って、ドアを閉めた。
私は、微動だにしない親友を眺めながら、朝食を摂る。
手早くすませると、私は立ち上がって鏡を見た。
今日の私は、いつものスーツ姿ではなく、色あせた軍服を纏っていた。
英国陸軍の式典に、恐れ多くもわたしのような傷病軍人が呼ばれたのだ。
その事を一週間前に親友に告げると、彼はあからさまに不機嫌になってしまった。
彼は軍隊が嫌いなのだ。
鏡を覗き込んでいると、急に背中に温かなものが触れる。
それが親友の背中であるのを知って、私は苦笑した。
「すぐに戻るよ、ホームズ」
彼の肩を、私の肩越しにぽんぽんと叩く。
「嫌いなんだ」
ぽつりと、独り言のように、親友は呟いた。
「軍服を着た君は、嫌いだ」
「ホームズ…」
「軍隊にいた頃の君は、嫌いだ」
「…ホームズ」私は大いに困惑して、親友に話しかける。「私を、そう苛めないでくれよ。軍に籍を置いていたことは、消せない事実なんだから」
「……いらないだろう」
親友は、呟いた。「今の君だけで、充分だ」
まるで、独り言のように。
過去の君は嫌い。
僕の知らない君は嫌い。
だから、軍籍時代など…。
2010.9.8pixiv掲載
2010.11.29加筆修正