Wished upon
そのまま、海に還る、美しい魂に見えた。
テムズ川の大いなる流れの終着地点に、我等はいた。
夜の深まる水面は、まるで墨を垂らしたかのような黒い色。
まるで、漆黒の闇、そのものが流れているかのようにさえ、錯覚する。
テムズ川の終着地。潮の独特の香りが鼻を擽る。
船を接岸することのできる、この港で行われた捕り物は、ヤードをも巻き込んでの大掛かりなものだった。
その捕り物を密かに指揮したのが、探偵であるシャーロック・ホームズだった。
卑劣な悪漢は、人質をとり、この港の倉庫に立て篭もる。
緊迫した状態であり、うまい解決法が思いつかなかったなか、ヤードは探偵の頭脳に頼ることになった。
探偵は、人質の叔父から依頼を受けていた。
結果、犯人と見られる連中を確保し、事件は終わりを告げた。
ただ一点。
人質は、すでに命を失ったことだけが。
墨を垂らしたように広がる水面を、探偵は見つめていた。
月明かりさえない今は、頼りない灯りの小さな炎だけが、道しるべのようだった。
探偵は微動だにせず、水面を見つめている。
まるで、魅入られたかのように。
「ホームズ」
医師は思わず、探偵の名前を呼ぶ。
その声は風にのって暗闇に響くが、まるで探偵には届かないような気がした。
何故なら、彼のいる空間だけが、別の次元のように思えたからだ。
「なんだい?」
そんな幻想を振り払うかのように、探偵は医師のほうを向く。
だが、皮肉な笑いを浮かべて振り向いた、そのすぐあとに、彼はまたも水面に視線を落とす。
「書くと良いよ」
探偵が、言った。「この傲慢な探偵は、己の能力を過信し、結果、救うべき者を救えなかった。この愚かな男の冒険譚を世に教えると良い」
「君が、救ったものもある」
医師は、静かに、厳粛に、答えた。「君は、これからも起こる筈だった、誘拐殺人事件に終止符を打った。奴らによって殺される筈だった人たちを、君は救ったのだよ」
「巧い、慰めだね、ワトスン君」
視線も合わせずに、探偵は呟く。
その視線の先は、闇を流したような、漆黒の水面。
探偵の失態ではない。
だが、彼はその落ち度を己で責め立てる。
誰も責めないというのなら、己が責め立てるのだ。
妥協も失敗も許さない、この天才と呼べる頭脳は、己の失態を許しはしないのだ。
不意に揺らぐ、探偵の身体。
それは、そのまま、海に還る、美しい魂に見えた。
「……ワトスン君?」
少し笑いを含んだ声。探偵は自分の身体を戒める、親友の腕をぽんぽんと叩く。「大丈夫、僕は海に落ちるようなヘマはしない」
「どうだか!」
背後から、必死になって探偵の身体を抱き支え、医師は叫ぶ。「事件が終わった直後の君は、一番危ういんだ!気力も体力も落ちて気鬱にすらなるんだから!」
医師は自分のバランスをワザと崩し、探偵もろとも地面へと尻餅をついた。
探偵は地面に転がりながら、くつくつと笑い出す。
「…なにが、おかしいんだ、ホームズ」
「いや、君は心配性だな…ドクター」
地面に仰向けになりながら、探偵は夜空を指差した。
「ほら、随分と美しい星空じゃないか」
「…そうだな」
「夜の水面とは大違いだ」探偵の声は、笑いを含んでいた。「知っているかい?流れ星は10分に一度、流れるそうだよ」
「…天文学か?」
「統計学だ」
「つまり」親友は、言った。「世界は10分に一度、願いを叶えるチャンスがあるということかい」
「悪くないだろう?」
「そうだね」
「じゃあ、10分間、待ってみることにしよう」
灰色の眼と翡翠色の眼が、夜空を同時に見ている。
その表情は、すでに穏やかなものだった。
彼らの願い事は、彼らの胸に秘されて、知る由も無かったが、だが、その穏やかな表情から、互いのことを願っていることだけは、分かるような気がする。
願いよ、叶え。
2010.12.6
不良保育士コウ