或る雪の日の
相手がポケットに手をいれた時点で、既に体が反応していた。
軍籍時代に嫌と言うほど叩き込まれた反射神経。
二つの銃口が、互いの肉に向けられる。
重なり合う銃声が、空間を支配した。
絶え間なく、大粒の雫が顔を濡らす感覚に、ジョン・H・ワトスン医師は意識を取り戻す。
薄く開いた視界に飛び込んできたのは、近い地面と横向きの高い建物。
暗い空らしきものが視界にうつるという奇妙な光景を疑問に思いつつ、それは、自分が地面に倒れている為なのだと気づくのに、随分と時間がかかった。
片頬が地面に当たり、少し痛い。
酷い倦怠感と、凍えるような寒さ。
体を動かそうにも、地面に張り付いてしまったかのように、動かせない。
或いは、凍りついてしまったかのように。
顔を断続的に濡らす水滴の正体は、雨であった。
冬の雨は、氷そのもののように、体温を奪っていく。
とりあえず、手を動かしてみると、右手に何かを握っていた。
それは愛用の拳銃であった。
よくみれば、それは水溜りに没している。
いや正確には、血だまりであった。赤黒い血液は、医師の腹部から滲み出ているのだと気づくのに、とても時間がかかったのは、恐らく思考が鈍っていたせいだ。
腕が、持ち上がらない。
すでに僅かな感覚しかなかった。
流れ過ぎた血液を眺め、これほどの出血であれば命の危険にも及ぶ。
そう医師は理解はしていたが、それでも、心の底から安堵した理由は、この血液が探偵のものではなかったということだ。
己の血液がどれほど流れても、あの探偵の血液が一滴でも流れ出ることを、医師が許さない。
ああ、と医師は心の中でため息を吐く。
もう、潮時か。
ふと沸いて出た言葉に、医師は思わず笑いを零した。
潮時かな、か。そうかもしれない。
神が気紛れに与えた、私の時間は、今日でリミットなのだろう。
そう考えると、心が軽くなったような気がした。
同時に、掻き毟られ、杭を打たれたかのような激痛も走った。
原因は、分からないが。
捜査の途中の出来事だった。
探偵に言われ、医師は被害者の住む下宿の庭に楡の大木があるかを、調べにきたのだ。
楡の木があれば、犯人は被害者の恋人に違いない。
種明かしをまだしてくれない探偵の言葉の意味を、医師はまるで分からないが、それが真実を語るものである事は知っている。
だから、この冬の雨の中を、わざわざ調べにきたのだ。
実際に見上げる程の楡の大木があることを視認し、ハウスメイドに探偵へ電報を出すように頼んだ時であった。
物陰からの殺気がそれを赦さなかった。
懐の拳銃に手をかけ、メイドに大木の陰を通りこの場を離れるように伝えると、庇うように医師は殺気の前へ出て相手の出方を見据える。
裏口から出て行ったメイドが、ことりと木戸を閉めると同時に、殺気が濃密さを増した。
そこに現れたのは、先日聞き込みで会いに行った、犯人の友人であった。
「…ブライアンは逮捕されるの…」
低い声で、友人は問うた。
男の殺気は本物であるのが、医師には分かる。
何度も味わった、感覚だ。
「彼が犯人ならば」医師は、静かに答える。「如何なる理由があろうとも、人の命を奪う権利などない。犯した罪は償わなければならない」
「幸せを奪う権利もないよ」男は言った。「あの女が悪いんだ。別れ話を承諾しないから…!僕からブライアンを奪わないで!」
「…共犯者は、君か?」
子どものように駄々をこめる男を見詰めながら、医師は数時間前に探偵が呟いた言葉を思い出す。
彼が共犯者であれば、恐らく探偵の考え得る、総ての辻褄があう筈だ…。
そこまで思考した時だった。
「僕の幸せに彼が必要なんだ!」
相手がポケットに手をいれた時点で、既に体が反応していた。
軍籍時代に嫌と言うほど叩き込まれた反射神経。
己の命を守るために、相手の命を奪う術。
気づけば右手に己の拳銃を。
二つの銃口が、互いの肉に向けられる。
重なり合う銃声が、空間を支配した。
「ぎゃッ!」
「…ッ!…」
腹部を灼熱で焼き切られたかのような、激痛が走る。
遠く馴染み或る感覚に、膝をついた。
男は被弾した太腿を抑えて、喘ぎながら逃走を図る。
メイドは無事に逃げ出せただろうか。
そう思考するうちに、視界が暗転する。
男は逮捕されただろうか。
この大英帝国では禁忌となる愛を得るために、殺人を犯した愚かな彼らは。
邪魔な人間は殺す、というあまりにも自分本位な理由に呆れながらも、そこまで人を深く思えるという事に感心する。不謹慎ではあるが。
そこまで、自分は人の心を欲した事はあっただろうか。
そこまで、自分は人に深い情をかけたことがあっただろうか。
欲しいものなど、なかった。
いや、諦める事を早々に覚えてしまったのだ。私が欲しいものなど、手には入らない。
だから深入りすることを、辞めていた。
この年齢になれば、それが生き方そのものになっている。
だから軍医になった。
己の存在価値を、実感してみたかった。
死の緊張感に晒され、その不謹慎な高揚に心臓が動いているという実感が持てたのだ。
生きている。戦場に身を置かなければ、その事を体感できない。そんな自分自身にも呆れてしまう。
きっと、私は何かが欠落しているのだ。
だから、戦場から戻れば、私には何の価値もない。
ただ。
『来ラレレバ来イ、来ラレナクテモ来イ』
ふと、同居人の言葉を思い出す。
人の都合も考えぬ、その電報の一文。
素直、に来てほしいと願えば、私はすぐに君の下へ馳せ参じるのに。
傲慢で不遜。だが、その人並みはずれた能力は、神に選ばれ愛されたもの。
その代わりに常識はずれなその性格は、随分と理解が難しい。
だが難しいだけだ。彼のその類稀なる才能は、まさに数世紀に一人なのだろう。
死線をかい潜る度に思い出を邂逅していたが、思い浮かぶのは親友の顔と変動ばかり。
ああ、と思う。
こんな時に探偵の事が思い浮かぶなど。
だが想像の中でぐらい、愛情を持つ人間の腕の中で、息を引き取ってみたいものだが。
そこまで考えて、医師は自嘲した。
戦場までいった人間が、何をティーンエイジャーのような夢を思っているのか。
戦場で厭という程、見てきたではないか。
死ぬ時は、一人なのだ、と。
『ワトスン』
急に、あの灰色の、真摯な眼を思い出す。
そういえば、私が死んだら探偵は困るだろう。
それよりもあの破天荒な探偵の親友に、誰がなれる?
「…死ねない、か」
死ねないか?小さく呟いてみる。
思い起こされるのは、探偵の姿。
気の毒なほど射撃が下手で、捜査中の背中はがら空き。犯人に襲ってくださいといわんばかりの集中力。
その背中を守る事を、探偵は許可した。
背中を預ける事を、承知してきたか。
そんな探偵の相棒であり、ボディーガード、盾の役割を、放棄するわけにもいかないか。
何故なら、こんなにも寛容な人間は、滅多にお目にかかれない。
君が、私を、必要とするなら、ば。
だが。
体が動かない。視界には白いものがチラチラと舞い降りてきた。
雪か。
このままでは、ますます体温が奪われてしまう。
そういえば、体が震えてもこない。
自発的な熱生産能力が失われているところをみれば、低体温症も中度まですすみつつあるか。
視界が白く染まってゆく様は、とても美しく、この世のものとは思えない。
あの純白のような白さは、自分の体にも降り積もっているのか。
ああ、それもいいのかもしれない。
覆い隠し、そして、そのまま。
このまま、穏やかに、消えてしまえれば。
不意に、唇に温かく、柔らかなものが押し当てられた。
熱い空気が口から咽喉へと送り込まれ、肺に到達したとき、胸の中を温かく満たす。
もう一度、空気が送り込まれた。
温かい。内部から温められるそれは、とても心地よかった。
まるで、幸せに満たされているみたい。
まるで、愛情に満たされているみたい。
遠くで誰かが呼んでいる声がして、ワトスンは重い瞼をこじ開けた。
そこには、蒼褪めた顔の同居人の姿。
ああ、なんて顔をしているんだ、ホームズ。
こんなに寒いのに。
可哀想に、震えているじゃないか。
寒がりなんだから、外にいたら、風邪をひくだろう。
ああ、なんて顔をしているんだ、ホームズ…。
肺から温かく満たされ、それがあまりに甘美なものに思えた。
探偵の背後に舞い降りる雪が、まるで天使の羽根のよう。
軍人である自分は、ロクな死に方をしないとは思っていたが、こんな風に逝くのも、悪くない。
看取ってくれるのか、私の名探偵。
2012.1.15
2017.7.8 改編