民家の明かりも消え、光は。街灯と信号、そして天の月明かり。
 その空気さえも凍りついているかのように、静かな静かに凍る夜。
 まるで寒気に時を止められたかのような、幻想的な夜。
 ただぽっかりと天に浮かぶのは、冗談のように美しい、紅い紅い狂気の月。

 故郷を思い起こさせるような、林の奥。
 まるで人目を避けるような、いや実際に避けている自宅兼診療所。
 故郷と違うのは、生える樹木の種類だろうか。
 舗装さえ拒んだ林道を、ただ無言で走らせる。
血の臭いが、鼻について離れない。
いや、今日の仕事に流血はなかった。そう、いつでも、仕事中に流血することはない。
させることはない。
だが、その脈が消える、最後の一呼吸の時、いつも、ふと臭うのは、あの独特のにおい。
出血などしていないのに。
それでも、その生命の灯火が消える瞬間、人はそのにおいをさせるものなのだろうか。
そんな症例は聞いたことはない。
 ヘッドライトの明かりの中に、見慣れた空間が浮かび上がる。
 自宅兼診療所。
 お笑いだ。自宅など、自分の家などもって、どうするつもりだ。
 別にここに帰ってくる必要などありはしないのに。
 だが。
車を停め、車のライトを消す。
エンジンをきり、運転席のドアを開けた。
時計はすでに、翌日の日付をさしていた。
お笑いだ。自宅など、自分の家などもって、どうするつもりだ。
それでも、ごく当たり前のように、玄関のドアへと近づいた。
中へと入るために。
ふと、視界の端に何かが動き、反射的に懐の拳銃を掴み、身を反転させる。
染み付いた、防衛本能。
だが、その動いた存在をみとめると、拳銃から手を放して、それに近づいた。
玄関から数メートル離れた樹木の下。
まるで闇に同化したかのような、その影は小さく動いて、ちかづいてくる存在を見上げた。
闇に浮かぶのは、まるで天に浮かぶ月よりも紅い、二つの瞳。
「ブラック・ジャック」
その影の名前を呼ぶ。
さあ…。空気が動き、風となって、影を見下ろす白銀の長髪を、美しく揺らした。
そしてその風に乗ってきた、リアルな臭い。
彼の体臭とリアルな血液の臭い。そして、青臭い精液の。
「こんな夜中に散歩か?どうやってきた」
抑揚のない声で尋ねる。辺りを見回すと、彼の車は見つからない。
「…歩いてきた…」掠れた声。それでも気丈な彼の声。「…お前…最寄の駅から10分以内のところに…住め」
「生憎、ここが気に入っているんでね」
嘘を吐く。
消毒液と煙草と彼の独特の臭い。そして血液と精液の混じる、リアルな臭い。
彼はよろめきながら、酷く緩慢な動作で立ち上がった。
「…悪いが…」彼は言った。「風呂と、着替えを貸してくれ…金は払う」
「高いぞ」
 やはり、抑揚のない無機質な声しか、この口からは出てこない。
 どうしたの。何があったの。
 そう聞けたら、いいのに。と、思う。だがそんな関係ではない。
 そんな関係ではないのに、彼は時々、こうして頼ってくる。
 事情を聞けない関係なのに、彼は頼ってくる。
 事情を聞けば、彼は二度と頼ってはこない。
 正直、察しはついている。

 バスタブにお湯を張っている間に、彼の服を脱がせた。
 やめろと抵抗するが、その臭いをつけたまま帰る気かと言うと、大人しく脱ぐ。
 そう、彼はそれを極端に恐れている。
 着替えを放ると、彼は手早くそれを身につけた。
「丸洗いしてもいいよな。コートの中身は自分で出せ」
黒いジャケットにリボンタイを洗濯ネットに入れる。
白いYシャツはところどころ破れ、ボタンは一つもなかった。
「どうする、これ」
「…捨てろ…」
自分のコートからメスやらなんやら、大量の医療器具を取り出しながら、彼は吐き捨てるように言った。
「お嬢ちゃんに、ボタン、つけてもらえないの?」
意地悪で尋ねると、彼はキッとコチラを睨む。それは殺気の混じった、怒りの眼光。
嘘だよ。冗談だ。
そうじゃなきゃ、君がココに来る訳がない。
 丁度よい、温かなお風呂の準備ができて、彼はお湯へと入りにバスルームへ。
 その間に彼のコートと衣服を洗濯機に入れると、洗乾ボタンを押す。
 そして、キッチンにある冷蔵庫を開けて、何かあったかと物色した。
とりあえずソーセージがあったので、それを焼く。
冷凍室にあった冷凍ピザを電子レンジに入れて、温めボタンを押した。
ぶーん。低い音をさせるレンジに背を向け、冷蔵庫からジンの瓶を取り出した。
そして、それをまるで水のように咽喉に流し込む。
先ほど着替えたときに見た、彼の裸体。
今回は、随分、手ひどくやられたもんだ。ちらりと思う。
まるで拷問を受けたかのような、傷跡。一体、何をしでかしたのか。
あれだけ酷い肉体苦痛を与えたところで、彼は屈することはない。
そう、性的な苦痛を味合わせたって、彼の孤高なる精神力は決して折れることはない。
まるで鋼のようなその強靭さは、天才ゆえの精神構造からか。
だが、一つだけ例外はある。

彼は彼の庇護する少女を引き合いに出されると、驚くほど従順になる。

何故、そんな弱点になるものを手元に置いておくのか。
最初は自分の患児を様子観察するためだったのではないか。だが、今は。
彼は彼の為だけに生きてきた、だが今は恐らくその意味合いは変わってきているだろう。
岬にある自宅兼診療所。
彼があの家に帰る目的は、今と昔でははっきりと違ってきている。
本当にあの少女が大切ならば、少女を手放すか、それとも自分が足を洗うしかないだろうに。
勘のいい輩は、とっくに気づいている。
あの少女が、あの天才外科医のアキレス腱であることを。
馬鹿な、男だ。愚かな、行動だ。
今回だって、そういうことだろう。あの少女の名を出されたに違いない。
そして彼はそういう目にあったことを、少女にひた隠しにする。
潔癖で清廉。醜悪で悪徳。
彼はこの世の負の部分を、少女には触れさせずに甘やかしているかのようにさえ思える。
そんな愛玩人形のような愛し方しかできないの?
だから、君は時々戸惑っている。
不意にみせる、少女の生々しくも酷な言葉を口にする現実を。
だって、少女は見た目通りの少女ではない。
少女は誰よりも生命力に溢れ、誰よりも醜い現実を、人間の負の感情を知っている。
君は、忘れたの。
そして、君には分からない。
お前なんか、死ねばいい。と人から殺意を突きつけられた人間の心理を。
 風呂からあがってきた彼は、大分血色のいい顔色をしていた。
 テーブルの上にピザとソーセージを置いて、座るように促す。
「何か飲むか」
「…ジン・トニック」
 適当にジンを割って、彼の前にグラスを置く。
一気に飲み干すと、彼は貪るように食事をとりはじめた。
まるで、丸2日ほど食べていないかのような、食欲だ。
あっという間に平らげると、彼は大きく息をついた。まるで生き返った人間のようだ。
「うまかった」
「そりゃ、よかった」
もう一杯彼の前にグラスを置く。またも一気に飲み干して、彼は立ち上がった。
「電話、借りるぞ」
「携帯はどうした」
「壊れた」
素っ気無く答える。壊されたのか、つまり。
彼は固定電話の受話器を取ると、迷いなく番号を押す。
その横顔は、微かに微笑んでいた。
まったく。君という人は。
「…ああ、すまない。どっかに落したんだ…ああ、止めておいてくれ。明日には、帰るから」
あのお嬢ちゃんの声が聞けて、そんなに嬉しいの。
あのお嬢ちゃんを引き合いだされて、君はそんな目にあったんじゃないの。
「よう、お嬢ちゃん」
横から引っ手繰って、電話の向こうに話し掛けた。「まだ、おきてたの?」
『ロクター?』受話器から聞こえる、可愛い声。『じゃあ、今、ちぇんちぇいはロクターといゆの?』
「そ、俺の家」
「おい!」
横で慌てる彼を押さえつけて「明日、ちゃんと先生を送り届けるよ」
『わかったよのさ』そう、少女は答えた。『…ロクター、ちぇんちぇいをよろちく』
それは憂いを含んだ声。ああ、それだけで分かったのか。
少女は鋭くて、聡い。
どんなに彼がひた隠しにしたって、その事実に気づいている。
それでも、君は、俺に『よろしく』って言うの。
「キリコ…貴様」
受話器を置くのをみて、怒りのオーラを滾らせる彼の胸倉を掴み、強引に唇を重ね合わせる。
「…っ、やめろ!」
両腕を突っ張って、本気で嫌がっている。
だが、それに構わず、もう一つ開いた手で、彼の後頭部を押さえつけて、彼の口腔内をじっくりと犯す。
がくかくと彼の腕が震え、足も力が抜けてゆく。
「…はっ……」
唇を離すと、彼はその唇を微かに震わせていた。
彼の腕をとり、乱暴にリビングのソファーへと押し倒す。
一瞬、驚いたように、その綺麗な瞳が見開いた。
だがすぐに、殺気の篭った視線へと変わる。
「やめろ、色情狂!!」
「お嬢ちゃんは『先生をよろしく』っていってたよ」
「それは!そういう意味じゃないだろ!!」
いや、恐らく、そういう意味だよ、先生。
噛み跡、鬱血痕、注射針の痕。
丁寧にその上に口付け、吸い上げると、大袈裟なぐらいに彼は悲鳴を上げた。
まだおさまりきっていなかった、残り熱。
ズボンの上から彼の性器に触れると「痛っ!!」と苦しげに眉根を寄せた。
それを労わるように、優しく解すと、その紅い瞳から雫が溢れる。
「痛い?」
「…うるさい…!」
言葉とは裏腹に、勃起する性器に、彼は固く瞳を閉じた。
これが少女に対して背徳だと思うなら、早く認めちゃえばいいと、思う。
それができないのは、君の弱さなのか、それとも、そんなに、あの少女が大切なのか。
君は、なんて言われたの。
なんて言われて、君は不本意な性行為を強要されたの。
それでも君は、耐えられるの。
 ズボンを脱がすと、赤くいたぶられた跡のある性器が震えている。
 一体、何をされたの。
 そう聞けたら、いいのに。
 だけど、事情を聞けば、彼は二度と頼ってはこない。
 痛々しい性器を、口に含み、優しく吸い上げると、彼は泣き声のような声をあげた。
 小さく、彼が名前を呼んだように聞こえたが、気のせいだろうと、言い聞かせる。
 
 事情を聞けない関係なのに、彼は頼ってくる。
 事情を聞けば、彼は二度と頼ってはこない。
 だから、俺は何も聞かない。


 脳裏を掠める、男の言葉。
『強情な先生だねえ』
男は笑いながら、何かを目の前に差し出してきた。
それを視界に認めたとき、BJの顔色がはっきりと青ざめる。
『可愛い、お嬢ちゃんだよねえ』
それは少女の写真だった。たったそれだけだったのに、苦痛を与える続けらた肉体は、思考回路を鈍化させていた。
『先生、これだけ可愛いと、結構、高い値で売れるんだよ』
『やめろ!!』
噛み付くように叫ぶ。それは初めて男達にみせた、剥き出しの感情。
『じゃあ、分かってるでしょう?』
下卑た笑い。その絡みつく醜い視線に、BJはもう抵抗すらしなかった。



「…キリコ…」
喘ぐ声の合間に紡がれた、冷静な名前を呼ぶ声。
組み敷かれた彼は、まるで救いを求めるように、その白銀の髪に手を伸ばす。
「…あ…キリコ…」
「どうした…ブラック・ジャック…」
髪の毛を掴まれ、吸い寄せられるように、顔を近づけた。
細められた瞳は快楽に溺れ、虚ろにその白銀をうつす。
「…キリコ…俺は…」指が白銀からするりと離れた。「…俺は、間違って…いるのか…?」
「いや」即答してやる。「お前は、何も間違っちゃいないさ」
「…よかった…」
美しく、彼は微笑んだ。それは、本当に安心したから?
君らしくないじゃないか。他人に意見を求めるなんて。
「…キリコ…イキたい…イかせて…」
「分かった、好きなだけイけよ」
「キリコ…一緒に…」
「…我が儘だな…」
可愛いことを言ってくれるな。本当に愛しく思うじゃないか。
あの子の元に、返したくなくなるじゃないか。


 事情を聞けない関係なのに、彼は頼ってくる。
 事情を聞けば、彼は二度と頼ってはこない。
 だけど、今は。
 今だけでも君を俺だけのものに。

 今だけ、俺だけのものに。






ex animo petit,