漆黒を切り取り、べっとりと貼り付けたかのような、暗い、暗い、夜の空。
そこは、希望に満ちた輝く星などありはしない。
意図的にその美しい光を塗りつぶしたかのような、
そんなものはいらぬと、総て毟り取り、葬り去ってしまったかのような。
 県営住宅の一番隅にあるそれは、最早誰もいない、鉄筋の建造物。
以前はよく手入れされていた花壇も、今では雑草が高く生い茂り、見る影もない。
恐らく、正面玄関として使われていたと思われる入り口は、
自動ドアの窓ガラスが壊され、誰でも容易に内部に立ち入ることができそう。
 そこは数年前に移転した、養護施設だった。
 この廃屋の屋上にあたる所に彼はいた。
 時々、頬を撫でる冷たい風は、今の自分には心地いい。
 この場所は、捨てた過去の象徴だった。
 思春期という不安定な時期を、ここで過ごした。
 そして、様々な現実を見せ付けられた、場所。
 ここは過去を捨てる決心をした場所。
 神聖でもあり、忌まわしい。それでも、ここに辿り着くわけは。
 不意に、人間の気配を感じる。
 いや、人ではなく、死神か。
 気配は淀みない靴音と共に近づいてくる。
 静かに、穏やかに、
まるで安らかな死を与えにくる、死神の時計のカウントダウンのようだ。
「見つけたぜ、先生」
頭上から降りてくる声は、よく知った男の音。
「こんな場所、よく知っていたな」
見下ろしながら、ドクターキリコは言った。
闇に溶け込みながら、それでもただ一点、彼の毛髪の白い部分だけが、その中で浮かび上がり、
彼の存在を辛うじて、この世に繋ぎ止めていたかのよう。
「…何しに来た…」
顔もあげず、彼は呟いた。
彼の周りには、数本のガラス瓶が無秩序に転がっている。
その幾つかは粉々に砕かれ、その無数の鋭い破片を撒き散らす。
その中の一つを、キリコは拾い上げた。
随分、度数の高いアルコールだ。
「捜索願いだ」キリコは言った。「お前のトコのお嬢ちゃんが、心配して、連絡をよこした」
一瞬だけ言葉を止め、そして告げる。
「『先生をつなぎとめて』ってな」
「…何言ってんだ…アイツは…」
呆れたような言葉だったが、声色は、彼の声は動揺していた。
驚いたのか、あの少女の勘の鋭さに。
「『あたしじゃ、無理だから』って、言ってたぞ。娘を泣かすなよ」
「……。」
言葉に、答えない。
口元がさらに硬く噛み締められ、僅かに震えている。
娘じゃない。
そんなことは、死神だって知っている。
あの少女は、この男にとっての娘ではない。
そんな一言では済ませられない、彼にしてみれば、神聖な、
ともすれば、信念そのものの存在であることに気づかぬほど、鈍感ではない。
だからこそ、彼は少女を「自分の娘」だと言う事に、躊躇する。
「お優しいな、死神は」
彼は初めて顔をあげた。「あんな子どもの言う事を、いちいち聞いてやるのか」
口元で無理やり笑ってみせる彼の瞳は、らしくなく大きく見開かれていた。
その赤い瞳は暗く濁り、恐らくなにも映してはいない。
いや、その瞳が見たのは、死神の背後にべっとりと張り付いている、死への誘惑か。
 彼はその手を伸ばした。
 神の手と称される右手で、死神の手首を掴む。
キリコはされるがままに、彼を見下ろしていた。
「今日は、仕事をしたのか、死神」彼は言った。「今日は、何人、殺してきた」
「さてね」
「私にぐらい、教えてくれてもいいだろう」
「悪いが、守秘義務だ」
 冷たく言い放つ。その言葉に、彼は声をあげて笑い出した。
「守秘義務か…はは…そりゃそうだ!」
いつもの彼の笑い声ではない。
搾り出すような、叫ぶような笑い声は、闇の中に吸い込まれていく。
 
『ちぇんちぇいを、繋ぎ止めて』

泣くのを堪えて告げた、少女の声を思い出す。
ああ、確かにお嬢ちゃんの勘は鋭い、と思う。
少女は彼に何があったのか、どんな仕事をしたのかなどは、言わなかった。
ただ、自分では、幼い自分では彼を、敬愛する天才外科医を、正気にはもどせない、と。
自分という存在では、彼を連れ戻すことは難しい、と。
その少女の判断の結果が、この安楽死を生業とする医師に頼ることであったか。
深いのに、すれ違う。
唯一だからこそ、踏み込めない。
そして、キリコはその願いを聞き入れることにする。
少女は、彼に何が合ったのか、語りはしなかった。
だが、恐ろしい予感はあったのだろう。
それは、少女の勘か。
 何があろうとも、彼は自ら命を絶つということはないだろう。
だが、彼は、決して脆いわけではないが、それでも、その揺るがない精神力が
無残にも砕け散る時がある。
そう、まるで、今のように。
 狂気の間を闇に見立て、彼はそこに躊躇なく解けこむ。
 たとえ、血に塗れていたとしても、闇はそれすらも覆い隠す。
 ただ、彼が闇に溶け込めないのは、皮肉にも幼い時に受けた事故の後遺症ともいえる、白い髪があったから。
それだけが、彼を、こちらに繋ぎ止めるための、唯一のものにさえ、見えてくる。
「もう、家に帰りな」
抑揚のない声で死神は言った。「散々暴れて、気が済んだろ。ガキは寝る時間だ」
「俺は悪ガキだから、まだ寝れねえよ」
「寝れねえ、じゃあねえ。寝るんだ」
「こんな時間に寝れるか」
「じゃあ、お嬢ちゃんに添い寝してもらえ」
 刹那。彼は勢いよく立ち上がると、死神の胸倉を両手で掴みあげた。
引き寄せられた表情は、まるで手負いの獣のような、殺気と狂気と痛々しさが入り混じった、複雑な表情。
ただ、その赤い瞳だけが、暗く濁って見開かれたまま。
「貴様に何が分かる!」
 今、初めて剥き出しになった、彼の感情。「お前には、関係ないことだ!ピノコに何を言われたか知らんが、貴様に同情されることじゃない!!」
「お嬢ちゃんは、何も言ってねえよ」
「なに…」
 彼の手が緩んだ瞬間、キリコの重い拳が彼の鳩尾に突き刺さる。
油断し、二つ折れになる彼の顔面を、死神は殴りあげた。
無様に、彼は地面へと倒れこむ。
そして死神を鋭く睨みつけた。
ぎらつく鋭い、赤い眼光。
そうだ、その瞳がお前には似合っている。
「お嬢ちゃんは、何も言ってねえよ」
もう一度、キリコは言った。「俺は、ただ頼まれただけだ」
倒れこんだ彼の胸倉を掴み、噛み付くように、死神は彼の唇に喰らいついた。
逃げようとする身体を押さえつけ、貪りつくすように、口腔内を嘗め尽くす。
全身で彼はその行為を拒否していたが、それを死神は全身で支配した。
少女は、何も言わなかった。
ただ、自分では、幼い自分では彼を、敬愛する天才外科医を、正気にはもどせない、と。
自分という存在では、彼を連れ戻すことは難しい、と。
ああ、なんて不安定な関係だろう。
彼は、彼に今最も必要なのは、少女のもつ愛情だろうに。
少女だけが持つ、彼への母なる慈しみと、その情愛だろうに。
だが、この男はそれを決して認めない。
己が庇護すべき立場であることを誇示し、頑なまでに感情を噛み殺す。
自分の抱える闇を、狂気を、少女に曝け出す事を、彼は絶息してもしないであろう。
馬鹿な男だと、思う。
 彼の黒いスラックスを引き摺り下ろした。
 無遠慮に下着に手を入れ、彼の男性性器を掴み、外界へと曝け出す。
「やめろ…キリコ…貴様…!」
喚く言葉が面倒で、キリコは数回彼の顔面を殴った。
苦痛に歪む表情を見てから、彼の性器を口で咥え込む。
「…っ!」
びくりと震える彼の身体が、可愛いと思う。
唇と舌で、キリコは彼の性器を丹念に愛撫した。
彼は行為を止めさせようと、肩を掴んだり、背中を拳で叩いたりはした。
だが、やがて、背中を殴る拳は、自分の性器を咥え込む頭を、その銀色に流れる美しい毛髪を乱暴に掴んだ。
「…止めろ…キリコ…なんで……なんで……!!」
本気で嫌がっているのが分かる。
本気で、彼はこの行為を嫌がっている事は、分かっていた。
丹念に、慈しむような愛撫に、彼は本気で怯えているのだ。
 やがて、死神は唇を離し勃起しきった性器を擦りあげる。
「…あ……キリ…コ…!」
名前を紡ぐ唇に再び、貪りつく。
擦りあげる手は止めず。唇を重ねたまま、彼は死神の手の中で吐精した。
 唇を離すと、荒い息を吐き出した。
「…なんで…」
怯えたような表情。滲む涙は生理的なものか、それとも。
「…あんた…なんで、優しくするんだ…」
 懲罰を望む罪人。彼は今、まさしくそれか。
「さてね」
冷酷に、言い放つ。
彼の後孔に、彼の精液を塗りつける。これだけでは足りないだろうが、生憎、他に用意がない。
慣らす為に侵入する指に、身体が弛緩するのを感じた。
同性同士の性的行為を知るこの身体が、それを欲しているのか。
指を引き抜き、キリコは自身の性器をそこに宛がった。
ずるり。音を立てて、死神の性器が彼の後孔を犯した。
「う…っ…ああ!」
貫かれる圧迫感と異物感に、彼は甲高い悲鳴をあげる。
それを無視して、死神は彼の身体を突き上げた。
繰り返される律動に、思考が白く霞んでいく。
圧倒的な力に支配され、脳細胞が腐れ爛れていくようだった。
「…殺せ…!」
行為の最中、彼は本音とも本気とも吐かぬ言葉を口にした。
「…キリコ…お前の手で…殺せ…俺は…!」
「殺さねえよ」
言葉を遮り、キリコは告げる。「殺さねえよ。お前は自分勝手に死ねる身分じゃねえだろ」
恐らく、その言葉は、本気ではない。
恐らく、その言葉は、本音かもしれない。
「お前は自分で背負ったんだ…自分で課したんだよ…今更、泣き言を言って逃げるんじゃねえよ」
「…キリコ…俺は…!」
「言うな」死神は言った。「言葉にするんじゃねえよ、ブラック・ジャック」
 内壁を抉るような、律動。
 この排他的行為に名前をつけるなど、無意味だ。
 別に自分たちは、愛し合っているわけでもないのに。
 ただ、こうする事でしかできない関係。
 ただ、それだけの、ことでしか、ない。

その律動の果てに達するエクスタシー。

悲鳴のような声をあげ、彼は射精した。
それに伴い、後孔がきつく収縮され、今にも食いちぎられそう。
勢いよく引き抜き、死神はコンクリートにその精をぶちまける。
まるで彼に付き合っただけのような、射精。
それでも、それでも。

「スッキリしたかい、先生」
身支度を整え、ついでに煙草を咥えながら、キリコは言った。
「お前は腹ん中に、色々と溜め過ぎるんだ。不健康極まりない」
「変態に言われたくないな」
かちゃかちゃと、ズボンのベルトをしながら、彼は吐き捨てる。
「ほう?誰が変態だって?ブラック・ジャック先生」
「あんたに決まっているだろ、キリコのダンナ」
「相変わらずの口だな」
 立ち上がり、キリコは夜空を見上げた。
漆黒を切り取り、べっとりと貼り付けたかのような、暗い、暗い、夜の空。
そこは、希望に満ちた輝く星などありはしない。
「さてと」
キリコは床に脱ぎ捨ててあった黒いコートを、彼に放った。
「ガキは帰ってねろ」
「言われなくても、帰るさ」
受け止めたコートを肩に羽織った彼は、もういつもの表情。
無免許で法外な治療費を請求する悪徳医師。
だが、その腕は神の手と称される、天才外科医。
 何があったかなんて、知らない。
ただ、彼をこの世界に繋ぎ止める事ができるのが、死神の化身だというのなら、なんという皮肉なことか。
 少女に愛されていることを、噛み殺す。
 その情愛を一身に受けながらも、殺ぎ落とす。
 本当に。そう、キリコは思ったのだった。
 あの男は餓鬼のようだ。
 二人の人間を食い散らかしても、まだ飢えているのか。
 と。 

廃墟に巣食う、漆黒