CORPUS DELICTI

 ケンジントン通りに開業している医師の診療所は、英国ではちょっと有名な場所だった。
 それは、その開業医の腕や人柄もさることながら、それ以外の理由で訪れる人間もいた。
 彼もそんな人間の一人だ。
 風邪をひいたのを幸いに、わざわざ汽車に乗ってやってきた彼の鞄には、数冊のストランド誌が詰め込まれている。
 それらは彼が厳選した数冊であり、それも三日三晩悩みに悩みぬいたものだった。
 鼓動がはやい。頬が高潮する。
 それらは恐らく、風邪の症状だけではない。
   背の高い建物に挟まれているような通りは、馬車が行き交うには少し狭くもあったが、往来は多い。  活気の溢れる通りを歩き、丁寧に辺りを見渡し、その名前を見つけたとき、彼は思わず小躍りしそうになった。

”ドクター・ジョン・H・ワトソン診療所”
 そう、彼はストランド誌に掲載されている、シャーロック・ホームズ小説の大ファンだったのである。






■1■






「どうぞ、お入りください」
 優しい声色に導かれて、恐る恐る診察室へと足を踏み入れた。
 少し狭いそこは、清潔な白を基調にされ、奥には簡易診察台。左側には大きな薬品棚。
 そして、デスクに座る白衣の若い男性医師がニッコリと微笑んだ。
 あれ、と彼は一瞬思う。
 想像していたのは、口ひげを蓄えた恰幅のよい紳士。
 だが、目の前にいるのは、温和そうな優しい笑顔を称えた、優男な医師であった。
「初めまして」
 医師は看護婦のとった問診表を眺めながら言った。
「初めまして」
 彼も軽く頭を下げる。そして小首を傾げながら「あの」と言った。「…ワトソン先生は、休診なんですか?」
「え?」
 男性医師は、彼の目の前で面白いほど間抜けな顔をして見せた。
 背後で、看護婦がクスクスと笑いだす。
 彼は状況が分からず、もう一度首を傾げる。
「…期待を裏切って申し訳ありませんが」
 こほん。赤い顔で咳払いをしてから、医師は言った。「私が、正真正銘の、ジョン・H・ワトソン医師です」
  「ええ!!!??????」
 今度は、患者たる彼が間抜けな顔をする番だった。
 
 正直に言ってしまえば、これが初めてではない。
 だがしかし、本人であるはずなのに、本人であるかどうかを聞かれる経験は、普通に生活をしていれば、そうそう無い。
 ワトソン医師は、確かに普通の開業医とは少々異なる生活をしていたし、間違われるという経験はその”少々異なる生活”のせいではあると、重々承知していたわけではあるが。
「…そんなに僕は、ワトソンにふさわしくないのかなあ…」
 鏡を見ながら呟くと、スタッフの看護婦が「そんな事はないですよ」と慰める。「先生の腕は確かなんですから。第一、皆さん、常連になってくださるじゃないですか」
「うん、まあ、そうだね」
 小さく微笑むと、医師は書棚に手を伸ばし、ストランド誌を手に取る。
 掲載されている、シャーロック・ホームズ小説。
 その執筆者であるワトソン医師と、名探偵の挿絵がそこに書かれていた。
 言ってみれば、その挿絵が勘違いの原因なのだ。
 挿絵のワトソン医師は、体躯がよく口ひげを蓄えた立派な紳士として描かれていた。
 それは、名探偵であるシャーロック・ホームズと並んでも遜色ない”相棒”そのもののようだ。
 そう、世間一般のワトソン医師像はこれなのだ。
 別にこれは小説なのだから、それはそれで構わない。
 構わないのだが。
 ストランド誌を伏せて置き、医師は鏡を覗き込んだ。
 色白で、年齢よりも若く見られがちのその表情は、暗く沈んでいる。
 本物ののワトソンは、口ひげを生やしてはいない。
 髪は金髪で痩躯、紳士としては少し頼りなさげな印象を否めなかった。
 軍籍に身を置いていた頃は、共に鍛錬を積み、それなりに肉付きのよい体をしていたものだが。
 アフガニスタンへ軍医として赴いたとき、医師は銃撃を受けて生命の境をさ迷った。
 その後腸チフスに罹患し、すっかりやせ細ってしまったのだ。
 だが、軍籍でも経験--戦場における死線を潜って来た経験や、武器の扱いなど----は、探偵の相棒として役立っている。
 …と。思いたい。
「せめて、口ひげ生えればなあ…」
 大きなため息と共に、医師はがっくりと肩を落とした。
 気にしても仕方がない、ことではあるのだが。

「また、間違えられたね、ワトソン君」
「ホームズ!」
 
 窓からの声に、医師はがばりと立ち上がると、勢いよく窓を開けた。
 窓の外には、人の悪そうな笑みを浮かべた名探偵が立っている。
「ホームズ」もう一度、医師は名前を呼んだ。「君、いつからそこにいたんだ。…ずっと見ていたのかい」
「うん、まあ、声をかけそびれてね」
「”面白くて”の間違いだろう!」
「まあまあ、いつもの事じゃないか」
まだ文句を続けようとする医師に、探偵は足元に置いてあった大きな旅行鞄を手渡した。
「君の荷物だ」探偵は言った。「あと30分で汽車が出る。早く残りの支度をしたまえ」
「依頼かい?」
「他に何がある」
「分かった!5分待ってくれ」
 パタンと窓を閉めると、ワトソンは看護婦のほうを向き直る。
 看護婦のほうは、もう慣れたもので「わかりましたわ」と笑った。「とりあえず、半月ほど休診ですわね」
「うん、ごめん。代診はアンストラザーさんに」
「ええ、伝えておきます」
 看護婦は手を振って「いってらっしゃいませ、先生」
「ありがとう、いってくるよ」

 それは、時々ある”少々異なる生活”であった。