CORPUS DELICTI

  大きな旅行鞄を抱えて、長身の紳士二人がチャリングクロス駅構内を全力疾走していた。
 バタバタと、多くの旅行客の合間をすり抜けるように走る紳士に、露骨に眉根を顰める女性や、大声で苦情を言う男性もいたが、二人はそれを振り切るように、目の前で蒸気を吐いて動き出した汽車へと手を伸ばす。
「早く!ホームズさん!ワトソン先生!」
 汽車の最後尾の鉄柵から、身を乗り出して叫ぶ男性に向かって、紳士二人は手にしていた旅行鞄とハットを投げつけ、最後に身軽になった己自身が飛び乗った。




■ 2 ■




 がしゃがしゃん。お世辞にも紳士的な乗車とは言いがたい様相に、男性---レストレード警部は呆れ顔だった。
「…まったく、何を手間取っていたんです」
「すまないねえ、レストレード君」
 紳士の一人である、探偵のシャーロック・ホームズが床に座り込んだまま片手をあげて笑って言った。「このワトソン君が、またもや、あの三文小説の挿絵通りの紳士ではないことを嘆いていてねえ、慰めるのに骨が折れたよ」
「”からかうのに”だろう!」
 はあはあ、と息を切らしながら、もう一人の紳士であるジョン・H・ワトソン医師は、キッと探偵を睨み付ける。「付け髭をつければいい、とか!変装をすればいい、とか!何で僕が日常生活を送る上で、自分を偽らなくてはならないんだッ!!」
「偽りの自分の方が、大衆に信じられているからだろう」
「まあまあ、お二人とも」警部は二人の旅行鞄を抱えて「とにかく、個室をとってありますから、そこへ移動しましょう。ワトソン先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
 笑って医師は立ち上がったが、僅かに眉根を顰める。
 その時、探偵が医師の手に彼の杖を渡し、寄り添うように傍らに立つ。
 それは違和感を微塵も感じさせないほどの、自然な動作だった。
「こちらです」
 警部の先導に、紳士二人は客車へと入り込んだ。
「…すまなかったね…」
 座席に挟まれた狭い通路を歩きつつ、ぼそりと、探偵が医師にしか聞こえぬほどの小声で囁く。「最近は雨続きであったことを、失念していたよ。もう少し、君の足には気を配るべきだった」
「”足”にだけかい?」
探偵の物言い、医師はくすりと笑いを零す。
「勿論だ」探偵は言った。「君の足は、君の全体重を預かる、いわば最大の功労者だ。僕が労うのは当然だろう」
「僕本人も労ってくれてもいいだろう?」
「そうだな。ではお姫様抱っこで、お運びしようか?」
「けけけけ、結構だよ!」
 慌てて青い顔で首を横に振る医師に、探偵は「冗談だよ」と返した。
 その声が心なしか残念そうだったのは、気のせいだろうか。  
「そもそも、何故、パジェット氏はワトソン先生を、そっくりに描かなかったのですか?」
 個室に落ち着いた頃、警部は世間話のように、この話題を持ち出した。
 医師は少し唇を尖らせながら
、 「僕がバジェット氏に初めて会ったのは、3作目の小説が出版された後なんだよ」
 そうなのだ。
 パジェット氏の素晴らしい挿絵は、探偵シャーロック・ホームズの人と成りを忠実に再現していた。
だがそれは、一重に、ワトソンの書く描写から推測した姿なのだ。つまり、ワトソン医師の書き出すその豊かな描写表現能力が、優れているということだろう。
 だがこれがワトソン医師の事となると、途端に輪郭がぼやけてくるのだ。
 語り部役として語られるワトソン医師は、名前こそ出ているがその風貌などは探偵にくらべて、詳細には述べられてはいない。
 つまり、あの挿絵のワトソン医師は、小説を読後したパジェット氏の想像に過ぎなかった。
 初めてワトソン医師に出会ったパジェット氏は、大いに驚き、挿絵を描き直そうか言い出したくらいだった。
「そんなことよりも、レストレード君」
 いつもの甲高い声で、探偵は無遠慮に会話を断ち切った。「このワトソン君は、昨日まで流感の患者に掛かりっきりで、ロクに新聞も読んでいないのだよ。簡単でいいから、事件のあらましを、彼に教えてくれたまえ」
「ああ、そうですね。それは失礼を致しました」
 警部はコートの内ポケットから、小さな手帳を取り出して忙しなく頁を捲る。
 医師も慌てて、ポケットから手帳を取り出し、白紙の頁を探し当てた。
「とにかく、奇妙な事件なんですよ」
警部は手帳から視線を外し、医師の顔を見る。「ここ半月で、14人もの人間が無差別に殺されたんです。一日一人が殺されているという計算になりますな」
「毎日、誰かが殺されているのかい!?」
 驚くべき異常事態だ。
 それも無差別に理由もなく殺されているなどと、その現場周辺に居住する人間には、恐怖以外の何物でもないだろう。
「無差別…というのは、賛同しかねるな」
 医師の言葉に、探偵が言葉を挟む。
 警部は、またか…とウンザリ気味な表情を浮かべる。
 どうやら二人の見解は(と言うよりも、捜査方針が)異なるようだった。
「何か、根拠があるのかい?」
 医師は探偵に尋ねる。
 記録係りとして、探偵の言葉や思考は余すことなく記録したいのだ。
「根拠だって?」
 医師がジッと見つめていると、探偵は機嫌をよくしたように、片手を振り上げて語りだす。
「いいかい、この14名の被害者のうち、7名が20代の男性、5名が20代の女性、2名が10代の少年だ。はっきりと年齢を選んでいるだろう」
「若者をターゲットとした、無差別殺人でしょう」
 警部がぼそりと口を挟むが、探偵はハッ!と短く笑った。「若者をターゲットにしている時点で、目的が生まれているではないか。それから、もう少し踏み込んで言わせてもらえば、男性9名のうち、6名が金髪、緑眼だということだ」
「それが、どうしたんです。金髪に緑眼など、珍しくもないでしょう」
「それは言えるね。現に我々3名中、ワトソン君が金髪の緑眼の男性だ。だが、考えてみて欲しい。14名の被害者は、何れも惨殺死体となって発見されている。その異常事態のなか、半数近い人間に共通点がみられるとすれば、それは無視できないことではないか」
「いやいや、考えすぎですよ、ホームズさん」
 笑いながら警部は手帳を綴じ、詳しいことは現地で話しますよと言い残して、食堂車へと向かっていった。朝食をまだとっていないのだと、愚痴をこぼしながら。
「何だか、陰惨な気配のする事件だね」
 医師も手帳を綴じながら呟くと、不意に探偵の手が、医師の右手首を掴んだ。
「先ほども言った通りだが」低く、それでも鋭く、探偵は告げる。「この事件の被害者に共通している容貌を、僕は無視することはできない。君の拳銃や剣術の腕前は勿論知っている。だが、用心してくれ」
「え、うん、分かっているよ」
 痛いほどの真剣な眼差しに気圧される様に、医師は答えた。
 だが探偵は、その言葉を信用していないかのように、手を放すことをしない。

「僕から決して離れるな、ワトソン」

 それは、懇願のような、命令。