CORPUS DELICTI

  四人乗りの馬車は、ゴトゴトと箱を揺らしながら田舎道を進んでいく。 
 男性四人が座る中、探偵は窓の外を眺めながら沈黙を保ったままだった。 
 その沈黙が、警部には不機嫌な証拠とうつったらしく、彼はしきりに医師に「夕食は、豪勢といきたいですねえ」とトンチンカンな事を話しかけていた。 
 医師は苦笑して「沈黙は、悪いものではないですよ」と答える。 
「そうですかねえ」 
 警部はチラリと探偵を盗み見るが、向かい側の探偵はやはり、少し不機嫌そうだった。 
 
 ちなみに、その不機嫌の原因は、馬車の座席であることに、警部は気付いてはいない。 
 
 
 
 
 
 
■ 5 ■ 
 
 
 
 
 
 
 
 まるで、地獄の門の如く高い鉄柵のついた門を潜ると、すぐに屋敷が見えてきた。
 古きよきジョージ・アン王朝の、四角四面を忠実に、美しく均整のとれた質素な概観は、この屋敷の一族の気質を表しているかのようだった。
 馬車を降り、ターナーに促されて、3人は玄関へと入る。
「あら、ジョン。そちらは?」
 広い吹き抜けのホール中央に大きく階上へと伸びる階段。
 その金色の華奢な手すりを掴みながらゆっくりと降りてくる女性は、いかにも高慢な視線で珍客を値踏みする。
「エルシー様にございます。エルシー様、こちらはシャーロック・ホームズ様と、ロンドン警視庁の方でございます」
「まあ、本当に来ていたのねえ!」
 執事の言葉に、彼女は満面に笑みを浮かべて、わざとらしく頭を下げた。
「当主ロバートの息子、リチャードの妻でエルシーですわ。ロンドンの有名な探偵に出会えるだなんて、嬉しいですわ!」
「初めまして」
 短く挨拶をすると、探偵は一つの興味もないという顔で執事の方を向く。「で、公爵殿とのお目通りは?」
「聞いてまいります」
 執事が頭を下げ、長い廊下へと消えると同時、エルシーが上品なドレスを揺らしながら医師へと近づいてきた。
「あなたは…探偵の新しい助手?」
「僕に助手はいません」探偵が低い声で言った。「彼はワトソン君。僕の友人であり、相棒です」
「あら、あら…そうなの、へえ…」
「ど、どうも」
 遠慮なく近づくエルシーに、医師は及び腰で後ずさる。
 別に女性恐怖症というわけではないが、ただ、彼女の自分を見る眼が、少し異常だと感じたのだ。
 そう、例えば…その瞳…。
「貴方の眼は、素敵な翡翠色なのねえ」エルシーは淑女とは思えない態度で、医師の頬に手を触れる。「素晴らしい輝きだわ…混じりけのない濃い緑。柔らかな乳白を称えて…」
「あ、あの…!」
 近づく顔にどうしたらいいのか分からず、医師は大層うろたえていた。
 途端。
「うわあ!」
 唐突に医師は襟首を掴まれると、すごい勢いでエルシーから引き離される。
 力の正体は、探偵だった。
「はしたない態度は、スキャンダルの元ですよ、御夫人」
 探偵は医師の襟首を掴みながら言った。「面白いうわさを耳にしました。この街を徘徊する吸血鬼は、金髪、緑目の青年が好物だ…と」
「あら、初耳ですわ」
 機嫌を損ねたように頬を子供のように膨らませて、エルシーは言った。「でも、そうね。その噂が本当なら、探偵さんの手が離れた隙に、ワトソン先生は吸血鬼に食われてしまいますわね」
「そう思いますか?」
「ええ」エルシーは答える。「吸血鬼でなくとも、その美しい瞳には魅入られますわ…先生、事件の詳細なら、私の夫がよく調べておりますの。ご覧になります?」
「後で伺います」と、探偵。
「あら、私はワトソン先生に言っているのよ」
「…え、ええと…先ずは公爵にお会いしなくては…」
 しどろもどろの説明に、エルシーはあっさりと「それもそうね」と気分を害した様子も無く、階段を昇って行ってしまった。
 丁度そのとき、執事は戻ってくる。
 彼に促され、一行は長く豪奢な廊下を歩み進む。
 白い壁には人物画が幾つか掛けられていた。
 執事を先頭に廊下を歩いているときだった。
「ホームズ」
 呟くように、探偵にしか聞こえないぐらいの小さな声で、医師は話しかけてきた。「…あの御夫人…すこし変わってる…ちょっと異常だよ」
「どの変が」
探偵も、囁くように尋ねてきた。
「僕を見るとき、瞳孔が開いていた」医師は言った。「普通の人間でも興味あるものには、瞳孔が開くものだが…あの開きぐあいは興奮状態…いやトランス状態と言ってもいい。病的な異常な興奮だったよ」
「ふむ…君の瞳の色を見ているときだったね」
「ああ」
「ワトソン君」探偵は、言った。「聡い君も気付いているだろうが、この屋敷で…いや、この街で君は一人で行動をしてはいけないよ」
「分かってる…でも」医者は、逡巡し、そして「もしかしたら、僕を囮に犯人を捕まえられるんじゃないかな…」

「馬鹿を言っちゃいけないッ!」

 突然の大声に、医師は勿論、先頭を歩いていた執事や警部までもがギョッとした表情で振り向いた。
 だがそれに構わず言葉を続けようとする探偵に、執事が「ホームズ様」と声をかける。
「ロバート様のお部屋にございます」
「あ、ああ…分かった、失礼をした」
 気を取り直す探偵は、一瞬だけ医師を見る。ワトソンの眼を。
”馬鹿な気を起こすな”
 探偵の灰色の眼が、そう語っていた。


■■


 「この地の問題は、この地の人間が解決する」
 挨拶の後に公爵から発せられた一言が、これだった。
 ロバート・シュツレイラ公爵は、身長が高く肩幅もあり、黒い髪と同じ黒い口ひげが、気難しそうな気質を正確にあらわしているようだった。
「もしくは、警察が解決したまえ!何故、外部の人間に頼るのだ、腰抜けめ!」
「申し訳ありません」
 探偵は微笑みながら、優雅に頭を下げた。「私は、無残にも一人娘が殺された哀れな夫婦より、依頼をされたのです。そして、このロンドン警視庁の優秀な警部に頼み込み、同行させていただきました。私の使命は、ただこの街の恐怖を取り除くことだけ。その原因への扱いは、勿論、この地の人間がすべきと考えます」
「ふん、口の達者な若造だ」
 公爵はぎろりと、探偵の背後にいる医者にも眼を向ける。「その男はどうだ。そいつは駄文作家なのだろう?あることないことを書き散らして、新聞に売るつもりだろう!」
「ワトソン博士の本業は医者です」探偵は言った。「文筆業は、私の記録係りをしている延長線上のこと。勿論、医者でありますから、口は堅い」
「その言葉に、違わぬな」
「ええ、勿論」
「人の悩みを食い物にした、薄汚い鼠め」
 執事に公爵は手招きをし、執事は軽く頭を下げると小切手帳を持ってきた。
 それにサラサラと、ゼロをいくつも並べた金額を書き込むと、無造作に探偵に渡す。
「違えたら、命はないと思え」
「御意」
 それを受け取り、探偵はもう一度頭を下げた。






「…君らしくないじゃないか」
 地元民の集う大衆酒場でやっと昼食にありつけながら、医者が不満そうな表情で探偵に言った。
「あの手合いは、金の力を強大だと勘違いしている」
 探偵は運ばれてきたミルクティーを味わいながら、にやりと笑ってみせた。「勿論、僕たちは金などで買収などされはしないが、ある程度は束縛されているフリをするのも必要だよ。そうしないと、僕たちはこの街から追い出されてしまう」
「それにしても、君を薄汚い鼠呼ばわりなんて…酷いにもほどがあるよ」
「おいおい、君だって駄文作家だなんて、辛辣な事を言われたじゃないか」
「どうせ君は”うまいことを言うな”とか思っていたんだろう?」
 運ばれてきたサンドウィッチに齧りつきながら、医師は眉間に皺を寄せる。  姿が見当たらない警部は、昼飯を食べる前に、地元警察へ顔をださなければならなくなったらしい。  まったく、ご苦労な事だ。
「僕は、君を信頼している」
 サンドウィッチをつかみながら、探偵は小さな声で言った。「君に同行してもらったのは、それ以外の何物でもないさ」
 あまりに小さな声だったので聞き逃しそうになったが、医師は小さく笑って、残りのサンドウィッチを飲み込んでから言った。
「分かってるよ、ホームズ」
 晴れ晴れと笑ってみせるワトソンの表情に、探偵は密かに安堵の息を漏らしていた。