CORPUS DELICTI

 堅牢な石造りの建物から外へ出ると、今までの憂鬱さが嘘のように霧散していく。
 外は燦々と陽が降り注ぎ、暖かな光が鬱々とした空気を振り払ってくれたようだった。
「あ〜、外はいい天気だねえ」
「気分が晴れますね」
 医師と警部が、大きく伸びをしながら、あはは、と笑う。
 それは、この石造りの建物には似合わない台詞だと、探偵は思った。




■ 4 ■




「さて、お腹が空きませんか」
 懐中時計を眺めながら警部が声をかける。時刻は昼食時間を少し回った頃だった。
「ああ、そうですね」
 素直に医師は警部の言葉に頷いた。
 たった今、惨殺肢体を見てきたばかりなのだが、片やロンドン警視庁の警部、片や元軍医とあって、記憶と胃袋を切り離す術を持っているようだった。
「ホームズ、君も行くだろう?」
「ん?ああ」
 医師の言葉に、探偵は曖昧に頷きながら、医師の傍に駆け寄った。
 どうやら思案に入っているらしい。
 口数少なく、視線を斜め下に落としながら、探偵は眉間に皺を寄せていた。
「グレグスンに、この街、評判の店を聞いておいたんですよ」
「へえ、じゃあ楽しみにしてもいいんですね」
 そんな探偵の前方を、警部と医師が暢気な会話を交わしている。
 二人とも、ついさっき見たものの話はしなかった。
 いや”したくない”が本音だろう。


 天井近くにある細長い窓は、明かり取りの役目も兼ねてだろうが、室内は斜めに差し込む光と、それがあたらぬ陰にくっきりと別れ、検視に最適とは言い難かった。
 光は上半身にあたり、被害者の顔を美しく照らしていたが、死体の腐敗が早まるという探偵の言葉に、監察医は、どうせ明日には燃やしますからと、いい加減だ。
 若い男性の遺体だった。
 髪の色は鮮やかな金色で、キラキラと輝いている。
 探偵が真っ先に確かめたのは、被害者の瞳の色だった。
「…………。」
 探偵は息を呑み、苦虫を噛み潰したような表情をする。
 それを見て、医師が不思議そうに遺体の瞼を押し上げた。
 死後硬直は終わっており、瞼は柔らかく、医師は慎重な手つきで瞳の色を確かめる。
「…緑色だ…」
 その色は、探偵が汽車の中で指摘した通りだ。金髪に緑眼。
 これは偶然なのか、何かの符合なのだろうか。
 探偵に尋ねようと意思は彼を見たが、相変わらず苦虫を噛み潰したような表情だ。
 あとで聞こうと思い、医師は遺体にかけられている布を捲くった。
「そういえば」
 監察医が、思いついたように言葉を挟む。「今回の被害者…ジョン・カーライルと言いますが、ワトソン博士に似ていますねえ」
「えー?」
 苦笑しながら医師は「髪の色と目の色ぐらいでしょう」と答えていた。 「いやいや、似てましたよ」監察医は言った。「宿屋の息子なんですがねえ、ワトソン先生みたいな優しい感じの男でしたよ」
「へえ、そうなんですか」

「言って良いことと、悪いことがある」

 急に凛とした探偵の言葉が、室内に響いた。
 驚いて医師は声の主を見た。彼はその鋭い目つきで監察医を見据えている。
 監察医は、えへらと苦笑し「いや、軽率でしたね」と、形ばかりの謝罪をした。

 似ていると、思ったのだ。被害者がワトソンに。  探偵の胸中に燻る黒い影が、ふと実像を帯びてきたように感じたのだ。
 犯人の動機は分からない。だが、これが快楽殺人の類だとしたら、ワトソンは犯人の標的の範囲に入るのではなかろうか。
 新聞記事や、調書からは分からなかった事実として、もしも、他の男性もあの死体のような容貌であったら。







「シャーロック・ホームズ様ですね」





 探偵の思考は、男性に呼び止められたことで、停止させられた。
 背後からの声に、探偵は怪訝そうに振り返る。
 そこに立っていたのは、老齢な紳士であった。背筋が伸び、規律正しそうな所作と服装から、執事であろうと探偵は無言で推測する。
「私は、ロバート・シュツレイラ公爵に仕えます、執事のターナーと申します」
 優雅な一礼を披露した後、ターナーは車道に止められた豪奢な馬車へ片手を向けた。
「シュツレイラ様がお待ちしております。警察の片もご一緒にご足労願います」  穏やかな物言いだが、有無を言わせぬ力を感じる。
 探偵は、小さく笑ってみせると「シュツレイラ公と言えば」と言った。「この街の名士。領主でもありますか。連続殺人の被害者の死体を焼却処分して下さった礼を、僕は言わなくてはならないのかな」
「そんな露骨に…ホームズさん」
 警部が困ったような顔をしてみせる。  二人が馬車に促されるのを見て、医師は「じゃあ、僕は宿に行っているよ」
「何を言っているんだ」
 探偵は、つかつかと医師の前まで来ると、彼の手首をギュと掴む。
「記録者がいなくては、困る。構わないだろう?」
探偵の言葉に、執事は眉根を一瞬だけ顰め「お呼びしたのは、ホームズ様と警部です」
「彼は僕の相棒で、記録者だ」探偵が言った。「真実を究明するには、彼の記録が正確でないと、僕が困る」
 執事は無言で、医師も手で促した。
 少し居心地が悪そうに、医師も豪奢な4人乗りの馬車へと乗り込んだ。
 ぱたん。扉が閉まり、ゴトゴトと馬車が、シュツレイラの屋敷へ向けて、走り出した。