CORPUS DELICTI

「はい、息を吸って」
 笑顔でワトソンは目の前の男の子に、優しく告げる。
 男の子は少し頬を赤らめながら、よれよれのシャツをたくし上げたまま、音を立てて大きく息を吸った。
 膨らんだ胸に、ステートを宛てると、その冷たさに男の子の胸が少しだけ引っ込んだ。
「うん、大丈夫。もういいよ」
 やはり笑顔で医師は男の子に告げる。
 頭を撫でて、シャツの裾を直す手伝いをすると、医師は男の子の後ろに立つ女性を見た。
「少し胸の音が違うように聞こえます。咳はしていますか?」
「ええ、夜には酷く…」
「気管支…という、息を吸って空気を胸に送り込む場所が炎症…痛んでいるようです。そこが痛むと呼吸がし辛くなってしまうんです。放っておくと、肺炎という病気になってしまうんですが、お母さん、よく気づいてくれましたね」
「治りますか?もう何日も咳が…」
 青ざめた女性に「治りますよ」と医師は力強く言った。







■ 7 ■







「薬を出します。あとは、小まめに水を飲ませて、夜はお湯を洗面器に入れて、子供の枕元に置いて下さい。大丈夫、来週には落ち着きますよ」
「あの…」
 安堵した表情を浮かべてから、女性はすぐにその表情を曇らせて、言い難そうに医師を見る。
「その、薬代までは…その…」
「あ、ああ、そうか」
 医師は合点がいったという表情を浮かべてから、うーんと唸る「そうか…じゃあ、薬草に詳しい方はいますか」
「祖母が…」
「じゃあ、その方にオトギリソウを使用した呼吸を楽にする薬を作っていただいても、結構です。ジギタリスとヨモギは駄目だとお伝えください。症状が悪化するので」
「ああ、ありがとうございます…!」
 目に涙を溜めて頭を下げながら、女性は男の子と出て行った。
 ワトソンは笑顔で見送りながら傍らの看護婦に「あと何人なんだい?」と尋ねる。
「あと6人ほどです」
 大柄な看護婦は、大きな手でワトソンの背中をバンバン叩きながら、早口で喋りだした。
「いやあ、やっぱりロンドンのお医者様は違うねえ!診断も鮮やかだよ!ニイル先生が風邪で寝込んでどうしようかと思っていたけど、一安心ってもんだ!それも、あのシャーロック・ホームズ小説のワトソン先生だって言うんだから!私もサムソンも大ファンなんですよ!しかし、ワトソン先生は思っていた以上に若作りだんだねえ!挿絵の先生を想像していたから意外だよ!」
「あの、次の患者…」
 叩かれた背中の痛みに顔を顰めながら、ワトソン医師は患者を呼ぶ。
 現在、ワトソンは町で一軒しかない診療所の代診を行っていた。
 代診をしながらの情報収集をしてほしい…というのが探偵の言葉だったが、そもそも、この町の医者が風邪で倒れたという情報をどこで手に入れたのかというほうが、不思議でならない。
 だが探偵曰く「そこらで、人が話していただろう」と呆れ顔だ。
 かくして、ワトソンは膨大な患者を診察しつつ、情報収集するという器用な真似をする羽目になる。
 おまけに。
 ワトソンが、ストランド誌で探偵小説を執筆している、ワトソン医師なのだと知れると、余計な患者まで現れるのだった。野次馬という奴だ。
「先生、いっそここで開業されればいいのに!」
 医師がリュウマチの老人の足を触診していると、大柄な看護婦が声を張り上げて提案する。
「ニイル先生も、もうトシだし、若いワトソン先生が跡を継げば絶対に人気がでるよ!」
「そりゃあ、いいねえ。私らも安心だよ」
 ひぇっひぇっと老人は空気が抜けるような音で笑って見せた。「そうなせえ、先生。そうしなせえ」
「いや、あの、しかし…」
 自分は既に診療所を開いているし、ここに来たのはそもそも事件調査のためで…と説明をしようとするが、看護婦の見た目通りのマシンガントークに、ワトソンは立ち打ちできない。 「絶対にいいですよ!先生!なんでしたら、私が住み込みでお世話もするし、あのホームズって探偵がよんだら、変わりに私が行って、よこで「すごーい!」「さすが!」「すばらしい!」って囃しててあげるよ!あと、事件の記録もとればいいんだね!よし!決まり!先生はここでニイル先生と診療!私は住み込みの女房!」
「ちょちょちょ、ちょっと、そんな勝手に…!」
 さり気なく、図々しくもワトソンの女房に納まろうとする看護婦に、ワトソンはあわてて反撃を試みるが、これがまた言葉を挟ませない。もうこうなったらと、ワトソンは診療に専念することにするが、看護婦の興奮は収まらず、自分が如何に優秀であるかを並べ立てていた。
 ほとほと心身共に困り果てた頃に、この状況に追い込んでくれた探偵がやっとあらわれた。
 太陽は数時間前に地平線に沈み、町は安息の暗闇に沈みつつある。
 看護婦は、如何にワトソンがここの町の若き医師に向いているかを熱弁し、ワトソンは慌ててそれを止めに入るが、やはりというか、当然というべきか、看護婦の口を塞ぐことはできなかった。
 安息の暗闇が、吸血鬼の纏になる前にと、探偵と医師は看護婦を彼女の自宅に苦労しつつも押し込めるのに成功し、そしてやっとワトソンは極度の緊張状態から開放される。
 そんな彼に、潜入捜査どころか、ただの情報収集だというのに、度胸と手際が悪過ぎる点を、探偵は宿へ戻る20分間、理路整然と並べ立てるのだった。
「分かった、悪かったよ、ホームズ。僕の欠点はよく分かってる」
 疲れきった口調で、ワトソンは大きな溜息をついた。「僕は嘘も誤魔化しも下手だから、重要な点を聞き出すのが下手だし、何が重要な点かも分かっていないよ…分かりきった事を書き取ることしかできないんだ……うん、分かってるって…」
 あまりに疲れたのだろう。
 医師は自分が踏みしめる石畳を見つめ、探偵の表情は分からない。
 それに気づかず、医師はやはり、言葉を繋げる。
「君を褒め称える言葉を、僕はたくさん贈りたいのだけど、そればかりが目立つのだろうね」
 ふと、先ほどの看護婦の言葉を思い出す。
 ただ、褒め称えていればいい。ドクター・ワトソンの位置づけはそれだ。
 それを意図として書いているのは、勿論ワトソン自身。
 しかし、本人を目の前にしても、その通りに見えるのであろうか。
 思い込みは現物の評価を正確には弾き出せない。いや、そもそも現物も、そんなキャラクターであるのだろうか。
 まあ、それはそれで、構わないか。
「相当、疲れているようだね」
 不意にワトソンは探偵に腕をとられた。
 そして支えるように、腕を絡めてくる。
「僕も多少、言いすぎた。さあ、早く暖かな宿へ戻り、美味しい食事を満喫した後に、今日の互いの成果を話し合おう」
「そうだね、体が冷え切ってしまうといけないよ」
 足早に宿へと向かう影が二つ。
 それは仲睦まじい、親友同士の姿だった。

 
 

■■




 食事を腹いっぱい食べ、暖かな暖炉の前でワトソンは足を摩っていた。
「それじゃあ、卿は奥方を亡くされたから、ずっと独りでおられるんだね」
「そうだ。随分と苦労しているようだね」
 探偵は紅茶を手渡すと、自分はパイプに刻み煙草を詰め込みだす。「ところで、君は吸血鬼関連の事件を患者やあのパワフルな看護婦から聞きだすことはできたのかい?」
「聞き出すというか、ゴシップホラーの類の噂位なら」
紅茶を一口飲んで、医師は小さく息をついた。陶磁のカップを通しての温もりが冷えた指先には痛いぐらいの熱さに感じる。「10年以上前に、やっぱり若い男女を狙う吸血鬼がこの町にあらわれて、卿の息子さんも食われたらしい…て。だからこの町は吸血鬼には特別恐怖を感じるんだって」
「うん、それは町を見ていれば誰でも分かるよ」事も無げに探偵は言った。「で、10年前の被害者の情報や、状況に関する話は……聞けなかったんだね、まあ、事件の本質が分からない君には、なにを重点を置いて聞けばいいかというのは、難しすぎるかな……じゃあ、僕が得た情報を整理してみよう。先ず10年前…正確には18年前だが、その事件の詳細だ。事の発端は、身元不明の男性の遺体が見つかったことだ。その1週間後に卿の息子が殺された。殺されたのはリチャード氏の兄である、チャールズ氏で当時14歳。二人とも滅多刺しで現場と思しき場所は血液があたり一面に飛び散り、真っ赤であったと当時の新聞は述べている。死因は失血死。この事件が原因で、卿の奥方は気が狂ったとされている」
「あれ、それが全容?」
 メモをとていた医師は、意外そうに顔をあげていった。「なんか、もっとたくさん亡くなって、あたりは血の匂いが充満していたって…」 
「殺された人間は、この二人だ」探偵は言った。「その事件の前後、家畜を殺される事件が相次いだらしい。それから人間が殺されたということから、町はパニックになったそうだよ」
「実際に殺された人間は二人だけ?」
「そうだ。そして興味深いのは、”吸血鬼”という単語を最初に使用したのは、卿の奥方らしい」
「…奥方の死因は?」
「発狂死とも言われているが、すぐに療養にだされ、療養先で亡くなっている。心不全らしい」
「ふうん」
 一通りの説明を聞き、医師はメモ帳を膝においた。
 そして、得意そうな顔をしている探偵の顔を見つめながら、疑問点を口にする。「僕にはさっぱり分からないけど、その18年前の事件と、今回の事件…人殺し以外の共通点が見られないような気がするんだけど」
「おや、作家ともあろう君が、情けない事を言うね」
 探偵は皮肉屋の笑みを浮かべると、演説者のように語りだす。「”吸血鬼”と言い出した人間が、どちらも卿に関する人間だという点は、興味深いね。自然発生的な言葉じゃない、意図的なものを感じないかい?」
「…吸血鬼を犯人にしたいのかい?」
 必死で頭を働かせながら、医師は尋ねた。
 だいたい、今日はふる活動だったのだ。
 思考が鈍りがちなのを頑張って奮い起こす。
「吸血鬼を隠れ蓑に、有耶無耶にしてしまいたいという意図を、僕は感じるがね」
「まさか、それじゃあ…」
「ワトソン」
 制するように、探偵は医師の名前を呼ぶ。
 探偵の細く白い指が、医師の肩に止まり僅かに力を篭められる。「明日も、君は診療所で代診をしながら情報を集めて欲しいんだ。…決して一人になってはいけないよ、恐らく危険はすぐそこに迫っている」
「分かってる」
 力強く頷くと、医師は懐から銃を抜いた。
 愛用のリボルバー。手入れの行き届いたそれは、医師が軍に籍をおいていた時代からの、相棒だった。
「できるものなら、これは使いたくは無いけど、自分の身ぐらい、自分で守るさ」
「頼んだよ、ワトソン君」