CORPUS DELICTI



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 ワトソン医師の出張診療所、二日目。
 噂が噂を呼び、患者一人に対して数人の見物人も押しかけたうえに「はー」だの「へー」だの言われた挙句、挿絵と全然違うと言われるのは、まあ、ロンドンでも慣れっこだった。悲しい事なのだが。
 なるべく人物を厳選し、小声で尋ねるのは、数年前の事件の事。
 一様に、尋ねられた人々は眉根を潜め、忌まわしい過去の猟奇事件など思い出したくもないという風であったが、それでも一言、二言。時にはも少し踏み込んだ情報を得る事が出来た。  診療をしながら、それらの情報を脳内で整理するのは骨が折れる事ではあったが、探偵の相棒として、それぐらいの事はしたいと思いつつ、やはり、本業である診療の方に没頭してしまうのは、ワトソン医師の真面目で実直な性格故であった。

 それが、時に、危機を呼ぶ。

 夜更け。魔や罪が路地裏で横行しても人の目につき難いほどに闇が色を濃くする刻限。
 あれほど厳しく一人で行動するなと咎められていた医師は、足早に路地を一人で歩いていた。
 長患いの末に床上の人となった老婆の咳が止まらないと、幼い孫娘が泣きながら訴えにきたのだ。
 ワトソン医師は、自身の安全と患者の容体を天秤かける男ではない。
 二つ返事で了承し、手伝いの看護師に探偵が来たら往診に出ていることを伝えるよう言つけて、医師は孫娘に手を引かれていったのだ。
 老婆の咳は、このまま放っておけば、あと数日で肺を腐らせてこの世を去ってしまうであろう。
 手持ちの薬剤ともてる知識を駆使し、なんとか容体を安定させることに成功したころには、すでに深い闇の刻限となっていたのだ。
 礼を言う孫娘に薬を私、ワトソン医師は足早に岐路についていたのだ。
 不意に、医師はその早足を、ぴたりと止める。
 遅れて止まるリズムを聞き取り、己を尾行する人間がいることを確かめたのだ。
 見た目が優男だの言われる医師ではあるが、これでも中東への派兵経験をもつ元陸軍医だ。  死線を掻い潜り、彷徨った経験を持つ医師は、立ち止まりながら、神経を研ぎ澄ます。
 感じ取ったのだ。死線を経験した者として過敏となる、目に見えぬ感情の刃。”殺意”が自身を貫くのを。
「さすが、ワトソン先生。話はお早い」
 布越しと思われる男の声。
 ひたりと背中に押し当てられる薄い切っ先。
 もしも武器がそれだけであれば、反撃ぐらいは出来る。
 その考えを読まれたのか、男は「大人しくついてきて欲しいんですがね」と告げた。「先ほどの、娘と老人を死なせたくはないでしょう?」
「…そうですね」
 ため息交じりに、医師は答えた。
 男に押されて歩き出す寸前に、医師は自分の懐中時計の鎖についているものをむしりとり、それを静かに落とす。
 薄いそれは、音もなく石畳に落ちたのを見て、ワトソン医師は息を細く吐いた。
「さあ、貴方の為の場所を用意しました。楽しみですね」
 男は、笑って、告げた。



■■




「まったく、警察官は調書や記録係りとして文筆専門員を雇うべきだな!」
 ステッキを振り回しながら甲高い声をあげて警察署から出てきた探偵は、背後からついてくる警視庁の警部を睨み付ける。
 警部は「確かに杜撰過ぎるところはありますが、仕方がないことですよ」とよく分からないフォローをいれた。
「仕方がない!?分類ぐらいしておくべきだろう!だから、こんな単純なカラクリすら見えてこないんだ」
「私にも見えてきませんよ、ホームズさん」
「は!警視庁の警部ともあろう人間が?まったく、もう少し頭を使いたまえ!」
 ギャンギャン吠えるようにまくしたてながら、探偵は足早よりもはやい速度で、歩き出した。いや、走り出していた。
「ホームズさん!どこへ!?」
「ワトソン君のお迎えだよ!すっかり遅くなってしまったじゃないか!」
「そんな…!先生は先にホテルへ戻っているでしょう!」
「馬鹿を言うんじゃない!彼をこの街で一人歩きさせるわけにはいかないじゃないか!」
「またそれですか?先生に限って、そんな事…!」
 呆れたように走る警部は、前方不注意になっていたと言わざるを得ない。
 急に立ち止まり、しゃがみこむ探偵に気づかず、数メートルは通り過ぎていたのだから。
「…ホームズさん…?」
 しゃがみこむ探偵が、何かを摘み上げて立ち上がる。
 その形相。
「ホームズさん?」
「ワトソン君が連れ去られた」
「はあ!?」
 唐突な言葉に、警部は首を傾げるが、探偵の表情は苦渋と怒りに満ちた恐ろしい形相であったため、警部は覆わずごくりと喉を鳴らす。
「みたまえ」
 探偵の黒い皮手袋にのっていたのは、シルバーの丸いプレート。
 そのプレートには、氏名、血液型、所属名が刻印されている。
 それは、ジョン・H・ワトソンの、認識票であった。