CORPUS DELICTI






 危機的状況であるというのに、ワトソン医師は冷静であった。
 それは、自分が死ぬはずがないという楽観的な思考からではない。むしろ、心情はその真逆である
 つまり自身の死を既に覚悟し、享受していたから。
 後ろ手に拘束され、冷たい床に座らせられた医師の視界は、黒布で覆われてしまった為まったく機能を為さない。
 だが。
「おお…本当に美しい金の髪ねぇ…」
 医師の髪の毛を触り、引っ張ったり、時には食むという行動に、医師は全身を硬直させていた。
 上半身の衣服は取り払われ、剥き出しの肉体は、別の手が皮膚に線を刻んでいる。
 その刻まれる線を脳裏で描き、医師はその意味を正確に理解した。
 刻まれているのは、これから切り裂く箇所。犠牲者の外傷個所と一致する。
 時折、刻む線は皮膚を離れ、再び触れた時は液体のような冷たさを感じる。
 それは、恐らく、ペン先をインクに浸すつけペンを使用しているからであろう。
「はは…さすが軍医とはいえ、元兵士。綺麗な筋肉だと思わないか」
 髪の毛を食む人物と、皮膚に殺傷線を刻む人物。
 布に遮られた声であったが、それは、この地に住まうものなら誰もが知る人物のそれに、酷似していた。



■ 9 ■



「何故、殺されたシュツレイラ公の息子の写真が出てこないと思う」
 公爵屋敷へ向かう場車内にて、探偵は警部へと尋ねる。
「それは、警察署で散々聞いたじゃないですか」
 呆れたように、警部は言った。「若き次期当主は病弱であったため、公の場に出る事はほとんどなかった。更に、あの忌まわしき吸血鬼に殺されてしまったのだから」
「だから、火葬された、というわけかね」
「そうだと言っていたじゃないですか!」
 イライラと答える警部に、探偵は杖の柄を噛み、瞳を閉じて思案しているようだった。
「違う」探偵は目を開き、そして「ワトソン君も標的候補の1人であるには変わりないが、それだと僕が非常に困る」
「ホームズさん。貴方もしかして犯人が誰か分かっているんじゃないでしょうね!」
 警部の問い詰める様な強い口調に、探偵は「まだ、口に出す段階ではない」
「ホームズさん!ワトソン先生が危険なんですよ!」
「分かっているッ!!」
 鋭い一喝に警部は思わず口を噤む。
 馬車は静かにシュツレイラ公屋敷へと乗り入れた。
 すぐに執事があらわれた。探偵の訪問に僅かに顔を顰め、退去を告げた。
 余程焦っているのだろう。表情は沈着でありながら、屋敷に内に入れさせまいと、馬車のドアを押さえつけてくる。
「お目通りを」それでも、探偵は怯まずに告げる。「ワトソン医師が連れ去れました。金髪で緑目の彼が、です!」
 探偵の言葉に、執事は観念したかのように、ドアから手を離した。
 足早に探偵と警部はシュツレイラ公の書斎へと向かう。
 ノックもなしにドアを開ければ、深夜にも関わらず、仕立ての良いスーツを着た公がいた。
 それは、まるで、待ち構えていたかのように。
「シュツレイラ公。単刀直入に申します」探偵は、言った。「18年前に殺された貴方のご子息は、吸血鬼に殺されたのではなく、貴方のもう一人の息子に殺された。吸血鬼は、リチャード様ですね」
 警部が驚きのあまりに息を飲む。だが、シュツレイラ公は静かに探偵を睨み付け、口を開いた。
「証拠は」
「ありません。ですが、公のその態度が、全てを物語っております」
「ホームズさん!18年前の殺人犯が、その、リチャード氏であるなら、彼は当時10歳ですよ!そんな大それた真似は…!」
 情けない声で声をあげる警部を探偵は無視し、探偵は言葉を続ける。
「古くからの血筋には多い話であるが、血族結婚を繰り返してきた一族には、心を病むものが多く出る。最たるものが、スペイン・ハプスブルク家。リチャード氏は発作を有する病を抱えておりますね?」
「発作の故の殺人?」警部は半笑いを浮かべ「それこそ無茶ですよ。10歳の子供が成人男性を殺すなんて!」
「だが、知能が幼い子どものような成人であれば、10歳の子どもでも殺せるかもしれない」
「ああ、そうだ」
 静かに聞いていたシュツレイラ公は、重い口を開く。「我が息子たちは、精神に疾患をもっていた。チャールズは精神が薄弱していたため、5歳にも満たない知能であった。リチャードは酷い癇癪持ちで、一度発作が起きると、暴れて手が付けられなかった」
 我が息子が、我が息子を、殺めたのだ。
 告白が、からりと、落ちる。





「泣き叫ばないんですね、さすが元軍人だ!」
 体に線を刻みながら嬉しそうに呟く声。そして、髪の毛をもしゃもしゃと食む音。
 医師は大きく息を吐き「私は逃げる事もできません。せめて、動機をお聞かせ願えませんか?リチャード様、エルシー様」
 名前をはっきりと呼べば、医師を嬲る手が止まる。
「…さすがですね、ワトソン先生」
 医師の視界を遮る布が取り払われた。
 石造りのここは複数の燭台のせいか、思っていた以上に明るく、二人の人物の顔を視認出来る程であった。
「ああ、やはりこの翡翠色の眼は美しいわね!」
 金髪を食んでいたエルシーは、その長く尖った爪で医師の眼に触れようとする。
「駄目だよ、エルシー」
   リチャードは笑いながら、その行動を制した。「髪の毛と眼は、焼く前じゃないと、ね」
「…火葬は、そのため…です、か?」
 リチャードの言葉に、医師は眼を見開いて言った。「吸血鬼と言い出したのが卿であったのは、そのため?…では、18年前の事件の犯人も、公爵家の人間?」
「ああ、それも僕だよ。僕と、お父様が犯人だ」
 悪びれもせず、リチャードは言った。羽ペンを床へ置き、布の塊から、布を取り去った。
 出てきたのは、鋭利な肉切り包丁と、と殺用の斧。
 痛そうだな、と医師は呑気に思う。
「チャールズはねえ、馬鹿だったんだ。お父様も邪魔者だったと思うよ。次期当主が精神薄弱なんてねえ。僕もチャールズがうざかった。そしたら、家庭教師だった……名前は忘れちゃったな…そいつが、チャールズを殺しちゃえばいいって教えてくれたんだ」
 若き貴族がスラスラと話す内容は、医師が想像していたよりも遥かに驚くべきものであった。
「チャールズ氏を殺した吸血鬼が貴方だとすれば、もう一人の身元不明の遺体は」
「父が殺した、その家庭教師さ」
 と殺用の斧が炎を反射し、ギラギラと光る。
 気づけば、肉切り包丁を手にしていたのは、エルシーの方であった。
 その切っ先を医師の大腿に押し当てる。ゆっくりと、まるで、食卓のパイを切り裂くように。