天使の翔ぶ町
 場所はイギリスの郊外であった。
 テムズ川沿いの小さな町ではあったが、ちょっとした観光名所であった為、駅もなかなか小奇麗なものだった。
 川沿いに、絵本に出てくるような英国の建物が並び、その川の反対側には、丘が続いている。
 それは中世から変わらぬ長閑さで、首都ロンドンに比べれば、幾分、時間の流れが緩やかなようだった。
「きえいらね」
 幼い足で歩みながら、少女は素直な感想を述べた。「ロンドンのといっしょの川とは思えないよのさ」
 この町よりも下流にあるロンドンのテムズ川を、天才外科医は思い出す。
 河川に沿って発達した多くの都市がそうであるように、ロンドンにおけるテムズ川が都市構築に果たした役割は大きい。
 工業国イギリスを支えるために必要であった。その為、19世紀後半には、テムズ川の透明度は悲惨なものだった。
 今では、都市景観などの観点から再生が図られ、川の水質浄化のプロジェクトが発足したらしい。
 だが、同じ河川であるはずだが、この川はそんな下流の事情など知ることもなく、ただ穏やかに時を刻んで来たに違いない。
 澄んだ水で鳥が羽を休める姿も、恐らく、数百年、変わらぬものであろう。
 橋を渡り、丘に続く道を少女と天才外科医は歩いていた。
 タクシーを拾おうと言ったのだが、歩いて行きたいと言ったのは、少女だった。
 晴れ渡った気持ちのいい気候だったため、その異国の空気を満喫したいと言う少女の気持ちは分からないでもなかった。
 が。
「…とおいよのさあ…」
 最初は軽快だった少女の足取りも、一時間を過ぎる頃には、重くなっていた。
 今回の依頼人は、この辺一体の地主なのだ。
 町から少し離れた郊外に住んでいる…と言葉で言えば一言だが、その『少し』が『車で1時間』を指すことを知れば、
 この国と日本の感覚の違いに、多少は驚いてしまう。
「…えええええ〜!?」
 案の上、少女は驚いてその場にへたり込んでしまった。
 遠くの森からは、呑気な鳥の高声が響く。
「歩きたいと言ったのは、お前だろ」
 天才外科医はシレっと言い放つ。「自分の言動には、責任を持つんだな」
「うう」唸る様に、少女は上目使いに天才外科医を見上げると、小さく息を吐く。「ろおしても?」
「当然だろ」
「うう」
 もう一度唸る少女を、天才外科医は見下ろしていた。
 特に優しい言葉をかけているわけでもないが、その彼の表情は、意外なほど穏やかだ。
「わかった!」
少女は決心したかのように、拳を振り上げて立ち上がる。「もうすこし、がんばゆ!…でも、
どうちても足が動かなくなったら、おんぶして」
「…仕方がないな」
 ため息混じりに、天才外科医は答えた。
 だが、その口元を手で覆っていたのは、少し緩んでしまった口元を隠す為だったか。
「あいがと」
 少女はにっこりと微笑んで、さあ、歩こうと思った時だった。
 一台の軽トラックが背後から来て、二人の目のまで停車したのだ。
「もしかして、ブラック・ジャックっていう、お医者様ですかあ?」
 日焼けした顔でにっかりと笑ってみせる運転手は「ああ、よかった」と呟くと、トラックの荷台を指差した。
「お迎えのジジイが見つけられねって言うから、おれらで捜していたんです。
見つかってよかった!さあ、乗ってくだせえ」
「あいがとー!」
 少女はぺこりと頭を下げると、ぴょん!と荷台に飛び乗った。
 やはり、もう、歩きたくなかったのだろう。
「……まったく、余計なことを」
 舗装されていない田舎道を、トラックの荷台に乗せられながら、
天才外科医の機嫌は僅かに悪くなったのだった。  


 地主の家は、テムズ川の支流沿いにあり、石造りの建築物はまさしく『屋敷』と呼んでふさわしい。
 日本で”屋敷” と言えば、公共施設か元華族が所有するものぐらいであろう。
 最近の成金が建てる、現代建築物とは趣が異なる建物は、歴史の重みも無言で伝えてくる。
「すごーい…博物館みたい…」
 少女が、またも素直な感想を述べていた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
 スーツを着こなす年齢の高そうな男性が、隙もなく一礼をする。
 自分が執事であることを告げると、男性は天才外科医と少女の手荷物を、さり気ない所作で受け取った。
 だが、天才外科医が右手に持つ、黒のアタッシュケースだけは、無言で制して譲らなかった。
 執事は、手荷物をメイドに渡し「先に部屋へ運ばせておきます」と告げると、やはり洗練された動作で、
二人を屋敷の奥へと誘った。
 天井の高い廊下は、中世の建造物を思わせ、少女は思わず見上げながら廊下を歩む。
 見上げる天井にはこれもまた美しい絵画が、一続きで描かれていて、少女は見上げるのをやめない。
 そのうち、前方が疎かになり、天才外科医の足に激突して、ひっくり返ってしまった。
「ピノコ」
 嗜める彼の言葉に、少女は「ごめんなさい」と素直に謝った。「あんまり、きえいな絵だったからあ」
「絵?」
「イエス誕生の天井画に、ございます」
 少女の言葉に思わず天井を見上げた天才外科医を見て、執事が穏やかに説明を始めた。
「描かれたのは、20世紀に入ってからですので、歴史的な価値はございませんが、
先々代の当主が宗教画を好んでおりまして、敷地内には、礼拝堂もございます」
「れいはいどう?」
「教会は所有しない礼拝施設のことだ」
「教会じゃないの?」
「個人宅にあるお稲荷さんみたいなものだ」
 些か的外れな(そうでもないような)日本的な例えを出し、少女は「ふうん」と一応頷いた。
 天井の絵が”イエス誕生”と呼ばれるものが描かれたところで、廊下は奥に突き当たる。
 執事は、ドアの横に立ち、僅かに前屈みの姿勢をとって、口を開く。
「当主、サー・ヘンリー・セントクレアの部屋にございます」
 執事は恭しく、茶色のドアをノックする。
「入れ」
 ドアの向こうから、重厚な男性の声が響いていた。