「じゃあ、行ってくる」 漆黒の外套を肩にかけ、天才外科医は愛用のアタッシュケースを手にしていた。 その大ぶりで高級感溢れる黒いそれは、彼の商売道具である医療器具が、整然と詰め込まれている。 これを持ち、彼は今まさに依頼人の元へと行くところであった。 「………。」 その様子を玄関でジッと見詰める存在は、無言で天才外科医を見上げている。 年頃は、18歳前後といったところだろうか。 整った愛らしい顔は、唇を尖らせ、不服であると言う事を強調している。 その表情に、天才外科医は、小さく溜め息を吐いた。 「…ピノコ」彼は、硬い声で言葉を繋げる。「何度も言わせるな。今回、お前を連れて行くわけにはいかない」 「なんで」拗ねた声丸出しに、彼女は言った。「ピノコも、もう子どもじゃないもん。先生の立派な助手だもん!」 「駄目なものは、駄目だ」 「ケチ-!」 「何とでも言え。じゃあな」 それ以上の問答をさせぬように、天才外科医は玄関のドアを開ける。 締める隙間からは、彼女の文句が、矢継ぎ早に響いていた。 外は、快晴。雲一つ無い、よい天気だった。 天才外科医は、玄関から横手にあるガレージへと向かった。 ふと見ると、自宅の窓から、やはり不服そうに唇を尖らせてこちらを見詰める彼女の顔。 まったく。 愛車に乗り込むと、天才外科医は、エンジンをかけた。 見送るのなら、せめて笑って見送って欲しいものだ。 そう思いつつ、天才外科医はクラッチを踏み、ギアを入れた。 光と、共に
彼女----ピノコは、室内から窓越しに、天才外科医の愛車を見送った。 同行を赦されない依頼…それは、安全が保障されない場合なのだと言う事を、彼女は重々承知している。 だからこそ、天才外科医に同行したかったのだ。 過去と違い、現在は大人相応の身体となったのだから、だからこそ、先生を守ることができる…と彼女は信じていた。 天才外科医とも悪徳無免許医とも呼ばれる彼は、常に危険と隣り合わせのモグリの医者だ。 事実、怪我をして戻ってくることも、少なくない。 だからこそ。 今なら、敬愛する天才外科医の盾にだってなれる。守ることができる。 彼女はそう信じていた。 最も、彼の天才外科医も、同じ思いを抱いていることに、彼女は気づいてはいない。 残された彼女は、小さく溜め息をついて、出かける支度をはじめた。 今度こそ、今度置いていかれそうになった時こそ、絶対についていこう! そう心に決めて、彼女はお気に入りの、ベージュのコートを羽織った。 自転車に乗り、向かった先は、手塚医院。 天才外科医の数少ない友人である手塚医師が病院長をつとめるそこは、時期的なものもあり、ソファーや座敷の並ぶ待合室は、込み合っていた。 名前を呼び合いながら、看護師と患者が軽く雑談を交わす姿が、あちこちで見られる。 地域に根付いた医院であることが、よく窺い知れた。 待合室を横切って、彼女は外来の奥にあるスタッフ専用のドアへと近づいていった。 途中、外来の看護師が笑顔で彼女に話しかける。 馴染みである証拠に、彼女も笑って挨拶を返していた。 スタッフオンリーと記されたドアを開けて、機材の並ぶ狭い通路を右に進むと、簡素なクリーム色のドアが突き当たりにあった。 そのドアには”医局”と遠慮がちな文字で小さく描かれている。 まるで、この部屋の持ち主の人柄を表しているようだった。 「おはようございます、手塚先生」 慣れた手つきで、彼女はドアを開けた。本来なら、部外者は開けてはならないドアだった。 「ピノコちゃん、おはよう」 だが、中にいた人物である手塚医師は、にこやかに挨拶をかえす。「今日は寒いね」 「はい。手が冷たくなっちゃっいました」 笑いながら、彼女は部屋の奥にあるロッカーへと歩み寄り、迷うことなくそのドアを開けた。 医局と呼ばれるこの場所は、実際は手塚医師や、週に数回通ってくるドクターの為の休憩所のような役割をしていた。だからか、あまり広くない室内には、奥にロッカー、その手前にはソファーセット。そして壁際にある二つのスチール製の机と、その壁には、レントゲン写真を見るための、シャーカステンがあるのみだった。 彼女は荷物をロッカーへ入れると、中にあった白衣を纏った。 この医院にて、彼女は武者修行をしているのであった。 武者修行…つまりは、アルバイトを兼ねているのだが、彼女はこの医院にて手塚医師の医療補助をしながら、医術を学んでいた。 断るまでも無いが、医療行為を行う為には、それ相応の知識と技術が不可欠だ。 そのため、医療行為を行える”医師”および”看護師”の資格を得るためには、専門教育を行っている学校へ進学する必要がある。そして、必要科目を履修し、国家試験をパスして、目出度くその資格を得ることができるのだ。 それは、どの国へ行っても、共通のこと。 だが彼女は、医師免許はおろか、義務教育ですら満足に受けてはいなかった。 それは彼女の出生が、健常児とは異なる為、仕方が無いことであった。そのため、彼女は資格を有する職業につくのは、不可能であった。 正規のものであれば。 彼女が敬愛する天才外科医は、医師免許をもっていない、モグリの医者だ。 件の彼と共に過ごし、経験してきた結果、彼女は医師免許のための進学はせずに、直接医術を学ぶ道を選んだのだ。 それが、手塚医院にての武者修行だった。 手塚医師も、諸手をふって賛成したわけではない。だが、出生の事情で行動に制限がつくこともオカシイと、手塚医師は考えていた。 ひとまず、やってみればいい。 見切り発車的ではあったが、手塚医師は彼女の武者修行を引き受けたのである。 彼女が手塚医院を出たのは、夜の10時を少し回った頃だった。 遅くなったので、送っていくと言う手塚医師の言葉を、彼女は丁寧に断った。 「自転車を置いて帰ると、不便だから」 爽やかに笑ってみせる彼女に、手塚医師は済まなそうに「気をつけて」と告げるのだった。 普段なら、こんなに遅くなることは無かった。 だが、近くで多重事故があり、その負傷者の対応に終われているうちに、時間が経っていたのだ。 幸いにして生命の危機に瀕するほどの怪我はなく、一段落した時には医師の間からも安堵の笑みが零れていた。 愛用のコートにマフラーも巻いて、彼女は夜道を滑るように走り出した。 手袋を持ってこなかったのは、失敗だったな…と考えつつ、そういえば食事を摂ったのも、お昼の一度きりだということを思い出した。 どこかで食べて帰ろうか。先生もいないことだし。 そんな事を考えながら、自転車は、住宅街を駆け抜ける。 あと少しで大通りに出る、というところだった。 脇の細道に、何かが見えた。 電信柱の陰で、蹲っているようにみえたそれは、どうも子どものようだ。 彼女は自転車を止めて、細道へと小走りに向かった。 街灯も無い細道は、夜闇に沈んで、まるで夜の海を思わせる。 その海の中に沈むように蹲るのは、少年だった。 「大丈夫ッ!?」 彼女は慌てて、少年に駆け寄った。 それは助けようと思った、彼女にしてみれば自然な行動であったが、少年はその声を聞くと、びくりと身体を震わせて、尚も道の奥へと逃れようと身体を動かす。 「まって」 彼女は地面に膝をつき、澄んだ声で、少年へと話し掛けていた。「私は、あなたの助けになりたいの。怖がらないで。ね」 言葉に優しい笑みをのせると、少年は動きを止めた。 そして、やはり不安そうな目つきで彼女を見ている。 「私は、ピノコ」彼女は、ゆっくりと手を伸ばした。「怪我をしているの?手当て、しましょう?」 「……う……」 唸るように見詰めていた少年は、ふと彼女の差し伸べてきた手に、自分の手を乗せた。 ひやりと、まるで凍りのような少年の手に、彼女は僅かに眉を顰めた。 あまりに冷たい。冷たすぎる。 「…歩ける?タクシーを拾おっか」 彼女は自分のコートを少年の肩に羽織らせると、冷たい手をしっかりと握った。 そして、二人は、足早に、大通りへと歩んでいった。 その二人を見つけた影が、小声で何か言い合うのも、知らずに。 次頁