(2話) 少年の手は、少年らしからぬ冷たさと強張りで、固く、固く、石のように握られていた。 口をへの字に結び厳しい表情の少年は、少しずつだが、口元が緩んでいった。 まるで、手を握る彼女の温もりが、凍りついた少年の部位を溶かし、解すかのようで。 「あっ!」 「大丈夫?」 少年は足を縺れさせて、冷たいアスファルトに倒れこんだ。 腕と膝を強く打ち付けて、痛さに顔を歪める。 だが、気丈にも少年は立ち上がった。断固たる目的遂行を遂げる為という、決意と共に。 ふわり。 不意に、一人で立ち上がる少年を、柔らかなものが包み込んだ。 それが彼女の腕であるということに気づいた時には、少年は彼女に抱き上げられ、そして走り出していた。 「お、おろして!歩ける!」 顔を真っ赤にさせて、少年は訴えた。 だが、彼女は「まあまあ」と言いながら、少年に笑いかける。「これでも私、力持ちなのよ」 それは、それは綺麗で温かな笑顔だった。 まるで春の陽光のような温かなそれは、少年の胸に仄かに宿り、じんわりとその温かい表面積を広げていく。 この場において、少年はその笑顔に見とていた。頬にある赤さは、先程の羞恥からくるものではなく、別の感情からか。 この人なら。 少年の眼に鋭い光が宿る。それは、決意した光。 「お姉さん」 少年は彼女にしっかりと抱きつくと、耳元に小さく囁いた。 その言葉に、彼女は一瞬だけ戸惑った顔をするが、それはすぐに平素の表情に消え失せる。 まかせて。 少年だけに聞こえるように、彼女は囁き返した。 そうこうしているうちに、道は淋しい住宅街を抜け、街灯が鮮やかに煌く繁華街の大きな通りへと合流した。 賑やかなカラオケ店の前に止まる、黄色い車体に緑のラインの入ったタクシーに、二人は乗り込んだ。 「手塚医院まで」 彼女は冷静に告げると、自分のポケットから携帯電話を取り出した。 そして、すばやく携帯電話の側面にある小さな蓋を、爪を立てて引き剥がす。 現れた小さなカードを軽く押して、彼女は取り出した。 それは、micro cardと呼ばれる、携帯電話専用の外部記録メディアだ。 少年は握り締めていた拳をゆっくりと開く。 そこにあったのは、SDカードと呼ばれる記録メディアだった。 いや、正確には違う代物だったが、この時刻にこの暗さでは、判別が難しい。 忙しなく手を動かして、彼女は作業を終えると、車内の運転手のヘッドレストを覆う透明なプラスチックの壁を軽く叩いた。 「すみません、ここでいいです!」 「え?あ、はい!」 中年の運転手は突然の客の申し出に、路肩に停車した。 タクシーの脇を、結構なスピードの車が、次々と遠ざかっていく。 彼女は釣りはいらないと言いつつ、最高額の紙幣を押し付けるように差し出すと、少年を連れて外へ出た。 少年の手を握り、彼女は肩で息を切らしながら、走り続ける。 あまり広くない歩道には、まだまだ通行人が多く、二人は間を縫うように走り続けた。 時々振り返るが、徒歩での尾行はいないようだ。 はやく、はやく。 もつれそうになる足を叱咤して、彼女は店の立ち並ぶにぎやかな通りを走り抜けた。 が。 あまりに唐突であったため、彼女は自分の身に何が起こったのか、正確には分からなかった。 まるで降って沸いたような衝撃。 ドライアイスを押し付けられたかのような痛覚が背中に走り、刹那、視界が暗転した。 彼女と少年は崩れるように、地面へと倒れそうになるが、その寸前に軽薄そうな茶髪の男共に体を支えられ、路肩に停まっていたワゴン車に押し込まれた。 スタンガンで意識を奪い、車で拉致。 その様はとても鮮やかで、手馴れていた。それを生業にしているのだと、専門家はコメントしたであろう。 事実、この行為に気を止めた者など、皆無であったから。 「なんだ?この女」 運転席に座る作業服姿の男が、訝しげに後部座席を振り返る。 「ああ、ガキといたんだ。親切なんだろ?」 運転席の男に一瞥もくれず、男は下品な笑みを浮かべながら、彼女の顔を眺めていた。「ガキも気の利いたことしてくれるぜ…いい女じゃねえか」 「…仕方がねえな」 呆れたようにため息を吐き、作業服の男は車を発車させた。 ■■■ 天才外科医の機嫌は頗る悪かった。 その原因は、この依頼内容であり、依頼患者の容態であり、そして何より傍らにいるべき助手がいないせいでもあったが、それは彼の為に伏せておこう。 とにかく、すべてにおいてが気に入らない依頼であり、本来であれば受けるわけがない内容であった。 それを受けざるを得ない状況になったのは、この依頼者が堅気ではなかったということと、その堅気ではない人間の態度であった。 無言での圧力。この依頼を受けなければ、貴様の身辺は危険なことになる。 だがそれに屈する天才外科医ではない。 それをしてみろ。私は貴様らにその言葉を後悔させてやろう。 やはり無言で対峙する天才外科医の眼光は、とても医者のそれとは思えぬほどの殺気だったものだった。 決して屈したわけではないが、それでも依頼を引き受けたことは、腸が煮えくり返るほどの怒りに満ちていた。 屈したわけではない。だが、それでも、身辺を危険に晒すのは、本位ではない。 天才外科医の機嫌が悪いのには、そんな経緯があった。 だが、それにしても、天才外科医がわざわざ来るような病状ではなかった。 いや、はっきり言えば、その患者は、最早、手遅れだったのだ。 痩せこけた頬は青を通り越して白く、目は落ち窪み虚ろに空間を瞳にうつすのみ。 問いかけには、ぴくりとも反応せず、そしてその左腕は皮下で黒く痣のような広がりがあり、表面には無数の針の跡。 その痣を一目見て、天才外科医は鼻白んだ。 それは、針を刺しすぎて血管が破れてしまった為にできたもの。 薬物使用者によくある痣だ。 そして、生気の無い表情に、動くことの無い体。半開きの唇からは、涎がつぅ…と流れている。 それはまるで、電源の切れた、憐れなロボットのようだった。 「…薬物中毒ですな」 一目見て、天才外科医はそう診断した。 いや、天才外科医でなくともそう診断を下すだろう。なにより、傍らに落ちている注射器が決定打だ。 「治りますか」 スーツ姿の男の言葉に、ハッと天才外科医は小さく笑った。「治るかだって?治す気がおありだったんですか?」 「当然です」 「無駄でしょう。これは外科医の仕事ではない」 そう言い切ったのを合図と受け取ったかのように、突如、半開きの唇からかすかにうめき声が漏れ出した。 それは徐々に大きく、息苦しそうになり、そして両手で胸を掻き毟りだす。 容赦のない掻き毟りに、首筋の皮膚が破れて鮮血を滴らせても、その手は止まらない。 生気の無かった表情は苦悶に歪み、その苦しみの度合いをありありと現している。 「危険だ」 天才外科医がその男の手首を掴んだと同時、カッと目を見開くと、そのまま男は事切れていた。 心不全か、それとも脳卒中か。 蘇生措置を施すが、事切れた命は繋がる事無く、憐れな屍となるしかなかった。 それは、麻薬中毒者の典型的な、呆気ない最期。 天才外科医は、それを看取りにきただけのような感じになり、なんともいえない後味悪さを感じていた。 「先生」 スーツ姿の男の台詞が、その後味に拍車をかける。 「死亡診断書を、作成して下さい」 と。 言ってみれば、奇妙な依頼ではある。 だが、何かがあるというのなら、これ以上深追いはしない方がいい。 そう悟り、天才外科医は死亡診断書を作成した。 これ以上、関わり合いになりたくはなかった。 書類と引き換えにもらった小切手を内ポケットにしまう時に、ふと携帯電話に気づいた。 メールが数件来ているが、その中に、助手の彼女からのものがあったのだ。 深く考えず、天才外科医は、その受信メールを見た。 次頁