「ちぇんちぇい!お帰りなちゃい!」
「ああ」
「あのね、昨日から、おふよの追い炊きがこわえちゃったよのさ。修理はあちたなの」
「そうか」
「だかや、今日はいっちょにおふよ、入りましょうね!」
「……………………はい?」




バスタイム〜天才外科医とベビードール






 一月も後半だというのに、急に冷え込んできた週末。
大寒も過ぎたというのに、空から降るのは雨ではなく、真っ白な雪だった。
こんな時期にその白いものを拝むことになるとは、異常気象もいよいよ
本気で、この高慢な二足歩行の高等生物に牙を剥いて来たということか、と
かの天才外科医は、天候の為にいつもよりも渋滞する幹線道路を、タクシーの
後部座席から忌々しげに眺めていた。
 実に半月ぶりの帰国。
この天候のせいで飛行機も遅れ、昼ごろには自宅兼診療所へ辿り着いている
筈だったが、今はもう、夕闇が街を飲み込む時刻。
せめて日付が変わる前に辿り着きたいのだが。
 自宅兼診療所に辿り着いた時は、もう辺りは真っ暗闇で、それでも
日付が変わる前に帰ってこれて良かった、と誰に言うわけでもなく、
安堵する。
 静かにドアを開けると、その音を聞きつけて、助手の少女が飛び出してきた。
 その満面の笑顔を見ただけで、体中の力がぬけてゆく。
「ちぇんちぇい!お帰りなちゃい!」
診療鞄を持つ手に、少女の小さい手が触れた。
温かい、柔らかな手。
「ああ」
素っ気無く答えつつ、さり気なく鞄を持ち替えて、少女の手を握る。
小さな、小さな、少女の手。
「あのね、昨日から、おふよの追い炊きがこわえちゃったよのさ。修理はあちたなの」
「そうか」
「だかや、今日はいっちょにおふよ、入りましょうね!」
「……………………はい?」
 少女の言葉に、天才外科医は目を丸くした。
「…風呂、壊れたのか?」
「うん」と、少女。「やかんでお湯を沸かして、おふよに入れたの。保温シートを
かぶちぇたから、まだ温かいよ」
「先に入っていればよかっただろ」
「だって、ちぇんちぇいに一番風呂、はいってほちかったよのさ」
 自分を見上げる少女。その瞳に天才外科医は折れた。
「まあ……たまには、いいか」
普段なら、エッチだの、れれいの嗜みだのと言って、一緒にお風呂に入ることはない。
まあ中身が18歳だからと思えば、男性との入浴を嫌がるのも解らないでもない。
だから、自分から一緒に入ろうというのは、この少女にすれば、本当に珍しいことだった。
それで雪が降ったのだろうか。

 先に入ってて!と言うので、先に浴室に入り湯船に浸かる。
少し温めではあったが、そこそこの湯加減だった。
やかんで湯を沸かして入れたと言っていたが、これだけのお湯を入れるとなると、かなりの
重労働だろう。
海外からの出張後は風呂を沸かしておく。
いつの間にかできた暗黙のルールを、少女は身体をはって厳守しているのだ。
「じゃーん!おまたちぇ!」
 愛らしい声と共に、元気よく少女が入ってきた。
 薄いピンクのベビードールを身に纏い、何故か紅茶色の髪には捻りはちまき。
そして、その手には丸いお盆。その上にはお銚子とお猪口。
「えへへ。今日は特別に、天狗舞の熱燗で〜す!」
「…やけにサービスがいいじゃないか」
いいつつ、天才外科医はさっそくお銚子から熱燗を注ぎ、クイッと仰ぐ。
出張中にアルコールを楽しむ時間は、勿論あったが、それはワインやリキュールの類ばかりだ。
やはり、冬は熱燗に限る。
「うまい」
「よかった!」
えへらと、少女は笑ってみせた。
湯船のお湯はぬるめだが、熱燗のおかげで、かえって心地いい。
「ちぇんちぇい、お背中、ながちますよのさ」
ニコニコ笑う少女は、スポンジにボディソープを垂らして、泡立てた。
「ピノコ」天才外科医は湯船から少女を眺めながら「それ、可愛いけど、濡れないか」
「え、こえ?」
ベビードールを褒められて、少女は照れたように「本当に?かわいい?」
「ああ」
「わーい」
無邪気に喜ぶ少女に、天才外科医は「濡れたら、勿体無いだろ」
「え…らって」
途端に恥ずかしそうに真っ赤になり、少女は俯いてしまう。
一緒に入ろうと大胆なことを言ったのは少女のほうなのに、
いざ現実になったら、恥ずかしくなったのだ。
いや、彼は医者だから、自分の身体なんて見慣れている。
それは分かっているのだが、やはりそれは意識の問題で、
病気でもないのに裸をみせるのは、少女には死ぬほど恥ずかしかったのだ。
そんな当然とも言える恥じらいの乙女心を、この天才外科医が理解できる訳も無く、
変な奴だと言いながら、熱燗を楽しんでいる。
「じゃあ、先にピノコ、ちゃんぷーちちゃおっと」
 身体を流す気配のない彼を見て、少女は浴室用の椅子に腰掛けた。
洗面器で汲んだお湯を軽く被る。
そして手のひらにシャンプーを出すと、勢いよく擦る合わせる。
たちまち、小さな手のひらの上はは泡で膨れ上がり、白い泡が空気に舞った。
「あーきもちいい〜」
泡を頭にのせると、少女はマッサージするように頭を洗い出す。
ティーン向け雑誌に載っていた、洗髪の仕方だった。
髪を傷めずに、頭皮の汚れを洗い流すらしいうえに、とっても気持ちいいのだ。
「そこ、洗えてないぞ」
「え?ろこ?」
不意に声を掛けられたかと思うと、大きな手が耳の後ろに伸びてきて、
軽く洗い上げた。その手はそのまま襟足に伸びて、軽く擦るように
優しく少女を洗い上げる。
かあっ…と少女の頬が赤くなるが、俯いているので気付かれずにすんだ。
「よし」
満足そうな声と共に、シャンプーを洗い流すお湯が頭からかけられた。
「あいがと、ちぇんちぇい」
顔をあげて濡れた髪のまま、少女は笑って礼を言う。
「…いい加減、脱いだらどうだ、それ」
指摘されたベビードールは、頭から湯を被ったせいで、すっかり濡れてしまい、
ところどころ、肌にはりついて、少々気持ち悪かった。
「…うん…」
くるりと後ろを向き、少女はベビードールを脱いだ。
そして傍にかけてあるタオルで肌を隠すと、ちらりと彼を見る。
「ちぇんちぇい」少女は呟くように言った。「ピノコも、中に入ってもいい?」
「ああ」
 お猪口を盆の上に置くと、手を差し出す。
その大きな手をとると、彼は少女の小さな身体を抱き上げて、湯船の中へ。
自分の膝の上に少女の柔らかな身体をのせると、少女は恥ずかしさのあまりに硬直した。
「どうした」
やはり鈍いのか、天才外科医は不思議そうな口調で少女をみる。
「あ、わ、わあ」
彼の膝の上にのった姿勢で、少女は顔を真っ赤にさせて口をぱくぱくさせていた。
「金魚の物真似か」
「違います!ちぇんちぇいのにぶちん!」
 ぷうと膨れる少女の濡れた髪の毛を、天才外科医は軽く撫でた。
そして、小さく呟く。
「しばらく、壊れたままでもいいかもな」
「え?」
言葉に驚いて、少女は振り向いた。
その天才外科医の表情は……。




後日談