(5)

 空港の入国審査を終え、人の流れに逆らわずに歩く。
 徐々に乱れる流れ。その隙間に紛れるように佇む、堅気ではない東洋人。
 明らかに、あの男の部下。
「初めまして、ドクタージョルジュ」
クセのある英語。あまり流暢とは言えないそれから、恐らく中国人かと判断する。
「全大人(チュェン ターレン)がお待ちです」
「知っている」
静かに答えた。
その碧眼は、言葉に似使わぬ程に、険しいまま。



 連れて行かれたのは、彼専用の応接室。
 そこは、彼が気に入った人間にしか入れない。
 だが、その部屋にジョルジュは連れて行かれる。
 彼にとってジョルジュは--------。
「久しぶりだな、ドクタージョルジュ」
 部屋の中央。豪奢なソファーに全満徳は身を沈めていた。
 そして当然のように、彼の傍らにはスーツ姿の日本人が立っている。
 表情はまるでない。まるで作り物のようにさえ見える。その鳶色の眼も硝子玉のように。
「彼は長旅でお疲れだよ」満徳は愉快そうに言った。「荷物を置いて、ここに座るように言いなさい」
「はい」
 満徳の言葉で、彼は初めて動いた。
 見たことも無い笑い方で、ジョルジュが手にしている荷物を手にとり、そして
「こちらへ、お越しください」
まるで優秀な執事のような身振りで、ジョルジュを促す。
まるで、彼の皮を被った、別人のように。
「影三!」
耐え切れず、ジョルジュは彼の両肩を掴んだ。突然の出来事だったにも関わらず、彼は表情を崩さない。
「無駄だよエドワード。君の声は届かない」
「どれだけの薬物を使用した」全身が震える。その怒りで「影三にどれだけの薬をぶちこんだっ!!」
「12時間ごとだ」満徳は言った。「まだ改良の余地がある。こいつは、12時間ごとに注入しないとならない…そこが厄介だ」
「…中毒症状は」
「PCPに似ている様だ」
「…向精神薬の一種のか」
「そう言ってしまえばただの麻薬だがな」
 満徳は立ち上がった。豊かな体を揺らしながら「この薬の最大の特徴を見せてやろう」
「特徴…だと」
言葉に苛立った。だが、今はこの男に従うしかない。
それを知っている満徳は、ガラステーブルに置かれた、おもちゃのような小さなナイフを手にする。
「影三」吐き気がする程優しい声で、満徳は呼んだ。「可愛い影三。このナイフで影三の動脈を傷つけてくれ」
「血が見たいんですか」
「そうだよ、是非、頼む」
「分かりました」
「…な…」
 会話に言葉を失い、ジョルジュはただそのナイフを凝視した。
 その会話は淀みなく、麻薬中毒者にみられる会話の矛盾はない。
 内容を考えなければ。
 彼は満徳からナイフを受け取った。そして、にっこりと笑ってみせたのだ。
 まるで子どもが、親に出来る事を自慢するように。
 一つの躊躇いも無く、彼は自分の左腕を切り裂いた。
 鮮紅色の液体が勢いよく噴出す。拍動にあわせて、ドクドクと。
「影三っ!」
 ジャケットを脱ぎ、その袖口で彼の出血部位を強く圧迫した。
 それでも、すぐにジャケットの袖口は噴出す血液を吸って、赤黒く染まっていく。
 その出血を止めるのに夢中だった。かなり深く傷つけたのか、なかなか止まらない。
 痛くないわけがない、それなのに彼は言葉を言う事も無く、無表情で出血を見詰めていた。
 硝子球のような、鳶色で。
「どうだ、ドクタージョルジュ。素晴らしいとは思わないか」
「…そうですね」
 研究棟から応急処置の機材を運ばせて、ジョルジュは影三の処置を行う。
 彼は処置される手を見てから、視線を満徳にうつす。不安そうに、縋るように。
 処置を終えると、彼はすぐにジョルジュから離れた。
 そして、当たり前のように満徳の傍へ。
「他人からの言葉のみで」ジョルジュは言った。「自傷行為を行うなんて、強力な洗脳作用だな」
 どんな洗脳や催眠作用でも、自傷行為をさせることはできない。生存本能か、防衛本能なのか、本人が自ら望まない限り、自身を傷つけさせることはできないのだ。
それを易々と行える薬物など、前例はない。
それも、致命傷にちかい傷を、命令のみで負わすなどとは。
「この洗脳作用はだいぶ実用的でねえ」満徳は笑い、そして「20人中18人までが自殺に成功したよ。かなりの高確率だったな」
自殺。その単語に血の気がひく。
被験者を洗脳したあと、自殺を命令したのか。今の影三へしたように。
「貴様…そんな被験を…!」
「エドワード」
怒りに震えるジョルジュを眺めて、満徳は実に楽しそうだった。
彼はいつでも人を値踏みしたような視線で、人を見下す。
「私が、この薬物を一番使いたかった人間が、誰だか分かるかね」
厚い唇を舐めながら、満徳はジョルジュに問うた。
そしてジョルジュが口を開く前に、彼は回答を。

「君だよ。この薬は、君の為に開発させた」

「な、に」
言葉を失う。いや、言われた言葉の意味が瞬時に理解できなかったというのが、正しいか。
汗がつっ…と額を伝う。
それでも視線は、満徳から離せず、彼の次の言葉を待っていた。
「この薬の犠牲者は、君のはずだったんだよ」
もう一度、言葉を変えて満徳は告げた。「しかし、影三は専門外とはいえ、やはり天才だな。こんな素晴らしい薬を作り上げるとは」
「…私が」呻くように、ジョルジュは尋ねる。「…犠牲のはずとは……じゃあ、影三は……!」
「天才は勘も並外れているということだ」
自分の隣に、影三を座らせる。そして、その指で彼の肌をゆっくりと撫でながら
「影三が天才なら、君は鬼才だと言えるか、ドクタージョルジュ。私も君を失いたくは無い。君のその頭脳だけはな」
「なら、何故、私に使用しない!」
「影三がさせなかった」満徳は言った。「君の体の抗体は、恐らく君の体だけにあわせて影三が作成したんだろう。後に君の血液から
ワクチンを作れるだろう事も予想して」
「…影三…が…」
 もともとジョルジュに対して使われる筈だった、洗脳薬。
 それを阻止する為に作られた、予防薬。
 総ては、私を、守る為に。
「麗しい、美談だな」
嘲笑うように、満徳は告げた。「何も知らずに守られる気分は、どうだね?エドワード。君の愛は、誰も救えないな。君の妻も、息子も。…影三も」

 堪えきれなかったのか、満徳は笑い出した。
 その下品な高笑いを聞きながらも、ジョルジュは反論すらもできない。
 いや、できるわけがない。
 そんな資格など、ない。

 君を守る 力すらも
















Qualification that loves you
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