R-18※作中の行為はあくまで二次創作上のものです。 それらの行為を助長する等の目的は一切ございませんので、ご理解の程、よろしくお願いします。 (12話) 奴が覚えているように、自分にも覚えがある。 いや、それは恐らく、奴よりも鮮明に。 まだ幼かったあの日。少年と呼ぶにも、まだ満たなかったぐらいの時に。 原因は忘れたが、オトモダチを怒らせてしまったのだ。 悔しそうに口を歪めて、その大きな瞳からは涙が今にも零れそう。 だけど、オトモダチは負けず嫌いで、その涙を落とす事無く叫んでいた。 「きいちゃんのばかあ!」 そして彼は、なんと自分の家の屋根にのぼってしまったのだ。 彼の両親が説得しても、降りてこない。 「…ごめんな、きいちゃん」 彼の父親が、済まなそうに目線をあわす。「折角、遊びにきたのに、何を怒っているんだか…」 小さく溜め息を落としながら、彼の父親は、ぽんぽんと頭を撫でてくれる。 「ううん、ボクがわるいから」 そう答えると、彼の父親はその瞳を細めて、小さく笑った。「きいちゃんは、パパにそっくりだね」 そう言えば彼の父親の言う言葉が分からなかったという、記憶はない。 オトモダチは正確には何を言っているか、分からない事が時々あった。 それは、互いの言語が違いからなのだと、今なら分かる。 だけど彼の父親は、確かに幼い自分が分かる言語を喋っていた。 それが、何故だか、とても印象に残っている。 もう一つは、瞳の色。 オトモダチの瞳は、とっても綺麗な赤い色だった。 彼の父親の瞳は、オレンジのような、明るいブラウンのような、不思議な色だった。 ああ。やっぱり似ているな。 そう、幼い心で思ったものだった。 ニューヨーク州の医科大学院。 そこは合衆国の主要研究課程ランキングでは、常に30位以内には入っている。 だが過去には、1位になったことがあった。 それは20年程前。天才と呼ばれる学生がいたからだと、噂されていたが、それはいまや伝説の類とさえ言われている。 確かに、合衆国のランキングで1位になるには、例え、一人の天才がいたとしても、それは容易いことではない。しかし、過去に1位になったことだけが、事実だ。 古い建物を入り、古い廊下を死神の化身は歩む。 手にはいつものアタッシュケースを模した装置ではなく、皮製の鞄が。 白銀色の長髪も後で束ねられ、その端正な顔には薄い色のサングラスを。 その姿は、いつもの死神の化身と呼ばれる者よりも、幾分か、雰囲気が和らいだ人のような印象を受けた。確かに、彼がこの場所に来たのは、安楽死医としてではない。 どうしても、気になることがあったからだ。 茶色の木のドアを軽くノックする。 「ドクター、先程お電話をした、オージュです」 丁寧なフランス語で、死神はドアへと話し掛ける。 やがて、静かにドアが開いた。 「…君が?」 ドアを開けたのは、初老の白人だった。高級そうなスーツを着こなす彼は、少し驚いたような顔をしてから、死神が差し出した手を握り返す。 「初めまして、ドクター」死神は言った。「私は、シャルル・オージュ。フリーの医療ジャーナリストです」 「…トーマス・ハンバートだ」 慎重な面持ちで、ハンバートは答える。「…いや、すまない…知った顔に似ていたから…」 「それは、ドクタージョルジュのことですか」 抑揚の無い声で、死神は尋ねる。その言葉に凍りついたのは、ハンバートの方だった。 「な、ぜ、その名前を」 「よく、言われるもので」死神は言った。「ジョルジュは、私の伯父にあたるものです。医療ジャーナリストをはじめてから、彼の異端とも言える経歴を知りまして、それで」 「ジョルジュ君の…甥?」 「母方の…遠縁ですが」 「あ、ああ、そうか」 ハンバートは小さく息を吐くと、死神を室内へと招き入れる。そして、ソファーに座るように促した。 彼はインスタントのコーヒーを自ら煎れながら「私が話せることは、少ないよ」と呟くように告げる。 そうだろうな。と、キリコも分かってはいた。 父親であるエドワード・ジョルジュの経歴は、ほぼ抹消されたとみていい。それは組織によってではなく、もっと大きな力のあるものによってだろう。 恐れずに言うのなら、この合衆国によってか、と。 クリアーを製造していると思われる組織には、奇妙な点がいくつかある。 先ず、何故、父はあの組織に加担しているのか。 キリコが物心ついたころから、恐らくあの組織に所属していたように思えるが、それは定かではない。 何故、エドワードはあの組織に属することになったのか。 いつから属しているのか。 そのルーツを探るには、情報が少なすぎたが、ただ一つ、父がニューヨーク州の医科大学院にいたという事を聞いた覚えがあったのだ。 そして、その医科大学院には、噂があった。 20年程前。天才と呼ばれる学生がいて、その学生のお陰で大学院は合衆国のランキング1位になったのだ、と。 たった一人天才がいたとしても、合衆国の大学院ランキングで1位になるのは難しい。 だが気になったのは、その”天才”という学生の噂だった。 20年程前。 もしその”天才”がクリアーを作った本人だとしたら。 そして、父と”天才”を結ぶのがこの大学だとしたら。 一体、20年前になにがあったというのだ。 「…ドコまで知っているのだね」 マグカップを死神の目の前に置きながら、静かにハンバートは尋ねる。 「…正直…何も…」神妙な顔つきをしてみせ、死神は「…ただ、伯父はここで天才と出会い、そしてある組織へ属することになったと、聞いています。 その組織は…口にださない方が、いいと」 話は勿論、ほとんどが作り話と憶測だ。だが、 「…そうだ」 ゆっくりと、重々しい口調で、ハンバートは口を開く。「忘れた方がいい。生半可な好奇心では、命を落とす」 「私は、伯父が好きでした」 ”命を落とす”だと?「彼は、私に本を読んでくれて、パンケーキを作ってくれた」 何故、ただの大学教授がそんなことを口にする。「彼の息子の為にも、真実を知りたいんです」 エドワード。あなたは、一体、何をしに、そして何をしでかしたというのだ。 「息子?」 「ええ」死神は探るようにハンバートを見た。「彼は殺されました。恐らく、何者か、プロの手によって」 「…ああ…!」 悲痛な声をあげて、ハンバートは頭を抱えた。 その額には、濃い色の汗を滲ませて。 大袈裟ではなさそうだった。少なくとも、彼の言う”命を落とす”という言葉は。 「君は、何を知りたい」唸るように、呟くように彼は問う。「私が話せることなど…本当に少ないんだ」 「では、ただの噂を」 「噂?」 「ええ」キリコは言った。「20年程前の、天才についてのただの噂を」 「…ああ、ただの噂だ」念を押すようにハンバートは「ただの噂…これは、ドクタージョルジュがいたころに、天才と呼ばれる学生がいた…という、ただの噂だ」 ”天才と呼ばれる学生”その単語を口にしたときに、彼の言葉が僅かに和らいだ。 まるで、まるで、懐かしい思い出を語るかのように。 「君は、ハザマ カゲミツという名前を知っているかね」 「…いいえ…」 慎重に死神は否定する。「日本人…ですか」 ハザマ カゲミツ。 その名前は初めて聞く。ただ、そのファミリーネームに僅かに驚く。 勿論、彼には気づかない程度に。 「我々の年代で、その名前を知らない人間はいない」 ゆっくりと、彼は唱えた。まるで、まるで神へと懺悔をするかのように。 「影三は…未曾有の天才と呼ばれていた。あの当時…人種差別は今の比ではなかった。それにも関わらず、彼の功績は、無視することができないほど… 彼の専門は循環器だったが、とりわけ人工臓器に熱心だった。ここには、人工臓器の研究室はなかったからな…私の循環器の研究室で、たった一人でつくりあげていたよ」 人工臓器を一人で作り上げるなど、無謀もいいところだ。 とても一学生ができる代物ではない。 臓器に関する知識は勿論のこと、実際の製作技術、駆動系システムの組み込みや移植するための手術法。 その総てを、彼は寝る間を惜しんで、考えあげ、作り上げていた。 「ドクタージョルジュは彼の良い理解者だった」 そう言ってから、彼はおかしそうに口元を歪めた。「いや、理解者というよりも、保護者だな。彼は研究に没頭すると、寝食を忘れてしまう。 ジョルジュ君はよく影三を引きずって学食に連れて行ったなあ…彼が影三を追い掛け回すのは、年中行事のようだったよ」 とても楽しそうな口調で、彼は言葉を繋げていた。 好物であるカレーライスや入浴剤で気を引いたり、罠をしかけたり。 まるで昨日のことのように語る彼のとっても、それは楽しい思い出の一つであったのか。 「…ドクタージョルジュは、人当たりの良い男で講義も人気があったけど、研究内容は難解で、所属する教授も完全には理解していなかったな」 ぽつりと、零すようにハンバートは「彼は北米の大学から移籍してきたな…北米では助教授だったらしいが、何故か助手として移籍してきた。 当時で随分高齢な教授の研究室でね…今思えば、彼は北米から身を隠すために、ニューヨークに来たんじゃないかな」 「どうして、そう思うのです」 「彼のレベルには合わないからだ」ハンバートは言った。「あくまで、噂だがな。……だが、影三だけだったんだ、ジョルジュ君の研究内容を総て理解していたのは。 ジョルジュ君は応用微生物の研究室にいたが、何度も影三と共同研究を行って…………」 そこまで言ってから、ハンバートは口を閉じた。 そして、苦渋に顔を歪ませて、きつく瞳を閉じる。 「…ムシューハンバート?」 何かの発作かとおもい、死神は思わず彼の傍で膝をおり顔を覗き込む。 彼は苦しそうであったが、だが彼は、涙を流していた。 「………当時にして、第三国に目をつけられたんだよ……」 搾り出すような声。それは、それは今まで押し殺してきた、言葉であったか。 「……影三は優秀すぎた…あの当時、秀でる頭脳は脅威になる……恐らく、ジョルジュ君が合衆国に来た理由もそれだろう……私は、研究を続けたがる影三を 臨床医として無理やり就職させた。これ以上、彼を目立たせるわけにはいかなかった……だが、遅かったんだ」 経済が高度に急成長する中、内乱や紛争も絶えなかった時代。 大戦で勝利をおさめた合衆国を疎ましく、そして恐怖におもい、脅威となる人材の暗殺や拉致は日常茶飯事だった。 「それにいち早く気づいたのが、ジョルジュ君だった。彼はどこかに属するのを嫌悪していたと思う」 だから北米から脱したのだと思う。国に保護を求めることなく、彼は自身の意思を選んだのだ。 だがジョルジュは、合衆国に自分を買ってもらう道を選んだ。 合衆国のプロジェクトに所属し、自分の能力と意思を捧ぐ代わりに、絶対的な身の安全を。 「そのプロジェクトに、影三も加わらせ、彼の身の安全を保障させたのも、ジョルジュ君だった。彼にとって、影三は…………」 言葉を切り、そして再び閉じた。言い過ぎた、そういう様に。 「その時点で、二人の経歴は抹消された。…私が言えるのは、ここまでだ」 「ありがとうございます」 静かに礼を述べた。 恐らく、彼は喋ってはならないことまで、話してくれたのだろう。 死神は「あくまで噂ですよね」と言うとハンバートは安堵したように、笑ってみせた。 「では、失礼します」 立ち上がる死神に、ハンバートは素早く手に何かを握らせてきた。 それは、写真だった。 「持っていってくれ」彼は言った。「身内の人間が持っているほうが、きっといい」 「…ありがとうございます」 古い写真だった。それを、キリコは内ポケットへと仕舞い込む。 ドアを閉め、再び廊下を歩き出した。 まさかとは、思っていたが。 歩みを速めながら、死神は考える。 まさかとは思っていたが、父と共にいた天才と呼ばれる学生。日本人でハザマという名前らしい。 天才でハザマ姓。 そして。 合衆国のプロジェクト。段々厄介になってきた。核心に迫ってきているだろうか。 ある程度の準備がいる。 そう結論付けて、無意識に死神はそれに触れる。 古い写真だった。カラーであったが、色が今よりも少しぼやけている。 正面を向いた黒髪の学生らしき青年が、背後から両頬を引っ張られている写真だった。 学生の背後にいる、両頬をひっぱる男の顔は、半分以上が隠れて見えなかった。 だが、分かる。これは若いエドワードだ。 それは、ただのスナップ写真であったに違いない。 二人とも笑っていた。 オージュと名乗る男が去ってから、ハンバートはソファーに座り、大きく息をついた。 久しぶりだった為か、喋りすぎてしまったかもしれない。 だが、もう20年以上も前の話だから、恐らく、大丈夫だと思うのだが。 「困りますわね、ハンバート教授」 唐突に響いた女性の声に、彼はぎくりと体を強張らせる。 いつのまにか、彼の傍らには、彼を見下ろす赤毛の女性の姿が。 「あ…あんたは」 「困りましたわ」女性はハンバートの言葉を遮り「口止めを、しておいたでしょう?忘れたのかしら?」 「わ、たしは、何も喋ってはいない…!」 「いいえ」女性は言った。「教授、貴方はだまされたのよ。あの男の本当の名前は、キリコ・ジョルジュ。 エドワード・ジョルジュの息子…死神の化身と呼ばれる闇医者よ」 「な、んだって…!」 ガタガタと体が震えだした。まさか、似ているとは思ってはいたが、まさかジョルジュに息子がいるとは思わなかった。 だって彼はあんなにも、影三のことを…! 「覚悟は、よろしいかしら」 女性は胸の特殊なホルスターから、拳銃を抜いた。 そして、器用な手つきで、銃口にサイレンサーを取り付ける。 ハンバートは、自分の命が尽きることをはっきりと、悟った。 ********** その表情は快活で、痴呆じみたものは欠片も見当たらない。 会話の遣り取りも矛盾点は、一つも感じない。 しかし。 『では、やってみなさい』 男の指示に、その人物は『はい』と答えた。 表情は、薄っすらと笑みさえも浮かべている。 その人物は、自分の体に液体を降りかけた。 ぐっしょりと濡れた衣服。 そして、その濡れた衣服に、まるで当然のように、ライターを近づけて 火を点けた。 「ほう、これは派手だな」 あっと思う間もなく、その人物は炎に包まれた。だが、その人型の炎は、ただ直立不動で立ち尽くしている。 それはまるで、ただの棒が燃えているかのよう。 そして数秒後。 ばたりとそれは倒れ、燃え続けたまま、動かなかった。 「完璧だな、ドクタージョルジュ」 大きな液晶画面の映像を見ながらの褒め言葉。 五本の指総てに大きな石のついた指輪がはめられている。その高価な両手を、ぱんぱんと叩きながら、全満徳は笑い声をあげていた。 「君の薬だ。さすがだな、なんて罪深い才能だ」 皮肉の言葉に、ジョルジュは唇を噛み締める。 影三が作り出した洗脳薬『クリアー』その改良を命じられ、ジョルジュは成功させた。 効果の持続性、習慣性の向上。 耐え難いことだった。こんな命を脅かすための薬の改良など。 だが、それでも。 「では」押し殺したかのような声で、ジョルジュは言った。「影三の治療に、当たらせてもらいます」 「そうだな」満徳は言った。「だが、今日は、香港の医師会長が、どうしても影三に会いたいと言ってなあ。戻ったら、行かせるとしよう」 「お願いします」 口早に告げ、ジョルジュは退室した。 たまらなく無力だ。 何も、何も救えはしない。その力の無さが腹ただしかった。 無力感に虚無感におしつぶされそうだった。 だが、ここで諦めては駄目だと、自分に言い聞かせる。 まだやらなくてはならないことがある。総てを終わらせるまで、立ち止まってはならない。 ジョルジュは、自分に宛がわれた研究室ではなく、影三の研究室へと足を運ぶ。 まだ、クリアーに対する特効薬はできてはいない。だが、治療法は、幾つか考えついていた。 影三の研究室に入り、彼のパソコンを起ち上げる。 まだ、クリアーには未知の部分が多かった。 彼の集めた、膨大な資料を読み漁る。 彼は、一体、何をしようとしたのか。 「失礼します。ドクタージョルジュ」 きい…とドアが開き、スーツ姿の影三は現れた。 「よろしくお願いいたします」 抑揚のない声で、影三は頭を下げる。まるで、ジョルジュなど知らないように。 だがもう、慣れていた。ここで、どうこう言ってもはじまらないのだ。 彼は、彼には全満徳の命令しか、頭にないのだから。 「調子は、どうだい」 「問題ないです」 彼は答える。まるで、外来診察を受ける患者と医師のようだった。 「じゃあ、楽な格好になって、横になるから」 「はい」 彼はスーツのジャケットを脱いで、ネクタイをはずした。 まるで、まるで、ただの治療を受けに来た、患者のようだった。 自分のことなど一つも知らない、初対面のような。 「胸を見せて」 ベッドに横になった彼にそう告げる。ステートを首からかけて、彼に近づいた。 「お願いします」 Yシャツのボタンを半ばまで外し、肌を露にする。 ステートを当てようとして、一瞬だけ、手が強張った。 のぞく肌色を彩る、鬱血痕。 その意味を考えないようにしながら、ジョルジュは胸の音を聞く。 ステートを当てる手が、微かに、震えていた。 ベッドに横たわっていたはずだった。 黒い泥の沼にでも沈んでいるかのようだった。 視界はゆらゆらと形を成さず、鈍い光が不規則に不気味に蠢いている。 息が苦しいような気もするが、そんなことはどうでもよかった。 遠くから、声が聞こえる。 聞こえているか? ああ、なんとか。あんたは、誰だ? …分からないか。まあ、いい。自分の名前は分かるかい? 名前?…ああ、自分の呼び方の事か。好きに呼べばいい。 覚えていないのか。 声が僅かに震える。ほんの僅かだったのに、何故か、分かる。 そういうあんたは、悪魔か何かか? 何故、そう思う。 さあ。今の俺のところに来るのは、悪魔ぐらいだと思ってな。 …そうだ。私は悪魔だ。君を、迎えに来たんだ。 わざわざ助かるな。うまく体が動かないんだ。 動かせないのか? 正確には、動かしている実感がない。動いているかも分からない。 …今、君の手を握った。どちらの手か、分かるか? …右の手が温かい。 そうだ、右手だ。………これは、痛いか? いや、何も…何かが触れたのだけがわかる。 そうか。 あんた、まさか医者か? …どうして、そう思う。 医者ならご免だ。俺はもう、いや………とにかく…医者は厭だ。 大丈夫。私は悪魔だ。医者ではない。 そうか。なら良かった。 ………。 悪魔なら。 え? 悪魔なら、俺を地獄に連れて行ってくれないか。 地獄を、望むのか。 ああ。俺は酷いエゴイストだから…生きていないほうがいい。 死にたいのか? 生きて…利用されるのが、もう厭だ。 そうか。 あんた、本当に、悪魔か? 何故? 悪魔にしちゃ、随分とお優しいな。 優しい悪魔もいるんだよ。でも、本当は誰よりも、醜い。 そうか。よく見えないから、分からないな。 見えない方がいい。悪魔の姿を見れば、気が狂うよ。 狂ってもいい。 狂っても、いいのか。 いや、俺は、狂っている。 どうして。 悪魔…俺の方が醜いさ。俺は、俺は…あの人に、酷いことを…自分の手を汚さずに、俺は、悪魔だ。 いや、君は、正しいよ。 正しい?同情してくれるのか。本当に優しい悪魔だな。 もう、眠ったらどうだ。眼が覚めれば、地獄に…。 現実に? え? 知っている…現実ほど、辛辣な地獄は、存在しない…。 意識が途切れる。 唇に何かが触れる感覚だけを感じて、全てが闇に溶けた。 これで、少しは効果があるはず。 焦る気持ちを抑えつつ、ジョルジュは自分に何度も言い聞かせていた。 洗脳薬クリアーを注入するのに用いるのは、注射器だった。 頚動脈の動脈注入により、より高い効果を得る。 この薬を体内から除去するには、薬剤の使用を中止するのが唯一の治療法だろう。 だが、突然の使用中止は、心不全を起こし死を招くことを、残酷な実験が立証している。 心不全の防止する為に治療薬を併用しても、このクリアーに介在するウィルスが治療薬の効果を打ち消した。 そう、クリアーにはウィルスが存在する。 血液による感染経路をとるこれは、人間の体内に入り込むと、体内の免疫システムを組み替えてあらゆる体外刺激から体を守るのだ。 その体外刺激は、薬の効果も含まれる。 つまり、クリアーを体内にとりこんだ時から、その体を治療するのは不可能なのだ。 恐らく、HIVウィルスの遺伝子を元に作成されてたのだろう。 なんて恐ろしくも完璧な薬なのだ。 この薬をほとんど一人で開発した、影三の才能に改めて感嘆する。 こんな組織に囚われてさえいなければ、彼は歴史に名を残すほどの功績を残せたかもしれないのに。 ジョルジュは、ベッドで眠る彼の脈を測り、そしてステートで胸の音を注意深く聞く。 彼の左腕には点滴がつながれていた。 中身は、クリアーを変化のないギリギリの濃度まで薄めたもの。 薄めた薬剤を、ゆっくりと注入することによって、治療可能になるはず。 自分の持つ知識と勘。祈る思いでジョルジュは彼を見る。 まだ、彼の持つ膨大な資料を読み解けてはいない。 まだ、彼の意図がつかめない。 だが、だけど。 薄っすらと、影三は瞼を開いた。 焦点の合わない瞳は、宙を彷徨っているようだった。 もしかしたら、僅かの間だけでも、正気に戻る時間が出てきただろうか。 「聞こえているか?」 ゆっくりと、話しかけてみる。 彼は、相変わらず視線を彷徨わせながら、呟くように「ああ」と答えた。「なんとか。あんたは、誰だ?」 こちらを見ていないせいもあるのだが、声だけでは人物の特定は無理なようだった。 「…分からないか。まあ、いい」ジョルジュは、小さく息を吸って尋ねる。「自分の名前は分かるかい?」 「名前?」彼はやはり天井辺りを見つめながら「…ああ、自分の呼び方の事か。好きに呼べばいい」 「覚えていないのか」 声が僅かに震えた。まさか、記憶障害だろうか。それとも、ただの意識の混乱か。 身が冷やりと切り裂かれるような思いだった。 いや、あれだけの強力な精神作用。記憶や判断に障害が出てもおかしくはない。 だが忘れてしまったのか、君は、忘れてしまったのか? 「そういうあんたは、悪魔か何かか?」 逆に彼が尋ねてきた。悪魔。君の口からそんな単語がでるなんて。 「何故、そう思う」 ゴーストさえ信じない君が。 だが彼は、その会話をとても自然に続けた。まるで、現実であるかのように。 「さあ。今の俺のところに来るのは、悪魔ぐらいだと思ってな」 悪魔しか、来ない、と。 君は、君は、それでも、君が望むなら。 「…そうだ」ジョルジュは答える。「私は悪魔だ。君を、迎えに来たんだ」 「わざわざ助かるな。うまく体が動かないんだ」 「動かせないのか?」 「正確には、動かしている実感がない。動いているかも分からない」 やはり脳障害がでているかもしれない。 ジョルジュは、力強く、彼の右手を握った。 「…今、君の手を握った。どちらの手か、分かるか?」 彼は少しだけ考え、そして口を慎重に開いた。 「…右の手が温かい」 「そうだ、右手だ」 温かい。痛点は感じないのか。ジョルジュは、彼の右手の親指を口に含み、強く噛む。 彼の指に歯型が食い込んだ。 「………これは、痛いか?」 祈るように尋ねた。だが彼は、少しだけ不安そうな表情をみせ 「いや、何も…何かが触れたのだけがわかる」 「そうか」 本当は、尋ねるまでもなかった。 彼は親指を噛まれても、悲鳴もあげず、痛がるそぶりも見せなかったから。 これは一時的なものだろうか、それとも副作用なのか、それとも…。 「あんた、まさか医者か?」 彼が尋ねた。その声。嫌悪感を含んだ、声だった。 「…どうして、そう思う」 「医者ならご免だ。俺はもう、いや………とにかく…医者は厭だ」 医者は厭だ。 その言葉に、彼の名前を呼びそうになった。 医者は厭か。 君だって、医者なのに、それなのに厭だという。 「大丈夫。私は悪魔だ。医者ではない」 胸が、苦しい。 「そうか。なら良かった」 「………。」 言葉がでなかった、彼は医者であることを否定すると、心底安堵したようだった。 君は自分を否定して、安心したのか。 「悪魔なら」 「え?」 「悪魔なら」彼は言った。「俺を地獄に連れて行ってくれないか」 「地獄を、望むのか」 地獄を、望むのか。 総ては君のせいではないのに、君は、地獄で何を望む。 「ああ。俺は酷いエゴイストだから…生きていないほうがいい」 「死にたいのか?」 「生きて…利用されるのが、もう厭だ」 「そうか」 それが、本音か。それが、君の言葉か。 君の本当の気持ちか。 「あんた、本当に、悪魔か?」 ゆっくりと、彼は再び尋ねてきた、いつの間にか、こちらを向いている。 相変わらず瞳の焦点はあってはいないが。 「何故?」 「悪魔にしちゃ、随分とお優しいな」 笑った。小さくだが、彼は笑ってみせた。 その笑顔が、私を捕らえる。 影三、影三…今ここで、君をさらってしまってもいいだろうか。 「優しい悪魔もいるんだよ」そう、嘘を吐く。「でも、本当は誰よりも、醜い」 君を攫っても構わないだろうか。 この醜い情欲に従って、君を、君だけを思いながら、この醜い私が。 「そうか。よく見えないから、分からないな」 「見えない方がいい。悪魔の姿を見れば、気が狂うよ」 「狂ってもいい」 彼は言った。 「狂っても、いいのか」 私は答える。 「いや、俺は、狂っている」 「どうして」 「悪魔…俺の方が醜いさ。俺は、俺は…あの人に、酷いことを…自分の手を汚さずに、俺は、悪魔だ」 「いや、君は、正しいよ」 君が悪魔なわけがない、君は君だけが、私の存在意義なのだから。 「正しい?同情してくれるのか。本当に優しい悪魔だな」 優しくなどない。影三。本当に優しい人間なら、君をだましたりしない。 君をだまして、こうやって傍にいようなどととは。 少し、彼の呼吸が短く、早くなってきた。 無理をさせてしまっただろうか。 「もう、眠ったらどうだ。眼が覚めれば、地獄に…」 地獄になる。君は、次に眼が覚めたときは、全満徳の愛玩人形に。 「現実に?」 「え?」 「知っている…」影三は言った。「現実ほど、辛辣な地獄は、存在しない…」 と。 ゆっくりと、彼は瞼を閉じた。 いってしまう。いってしまう。 肩を大きく揺さぶって、引き戻したかった。 いかないでくれ。どうか、私の元に。 やがて、安らかな寝息が聞こえ始める。 点滴はもう僅かで終わる。 眼が覚めれば、もう、私の声は聞こえない。 「影三…影三…」 名前を呼ぶ。そして、自分の口腔内を噛み切った。 血の味が広がる。 その、自分の血液を口移すように、ジョルジュは彼に唇を重ねた。 まるで、人形に口付けているようだった。 唇に何かが触れる感覚だけを感じて、全てが闇に溶けた。刹那の邂逅 次頁