曇天と言うのだろうか。
 空は鉛色に塗りつぶされ、生温かな風は随分と湿気を含んでいる。
 もうすぐ、この鉛色から雨が降り落ちてくるのだろうか。
 フローリングの硬い床の上。その冷たさは、硬さは、この世の理を凝縮しているかのよう。
 その、この世の理の上。長い手足を投げ出して、仰向けに。
 末端の手足は床のように冷えきっている。
 もうすぐ夏が来るはずなのに。
 それでもこの世の理は、外の事象とは関係なく、ただ、ここにあるだけ。
 何も変わりなどしないはず。
 雨は、降らなかった。
 少し離れた場所にある電話が鳴った。だが、興味がなかったので放っておく。
 今、自分は、気分が凍り付いて動けない。
 だが、電話の呼び出しベルは、随分と長いこと鳴っていた。
 数十回目に、留守番電話に切り替わる。これで、諦めるだろう、そう思った。
 だが

『おい!キリコ!いないのか!』

電話から響いた男の声に、思わず飛び起きてしまい、苦笑した。過剰反応もいいところだ。
苦笑している間にも、男の声が電話から響く。
『ヒマなら頼みがあるんだ、場所はK市の市民病院…』
『あ〜!ちぇんちぇい!また勝手にあゆきまわってゆ!』
『いや、ピノコ!これはだな…』
『しょうじょうぜちゅあんでちょ!ゆゆちまちぇん!』
『いや、ちょっとま-----』
ぷつん。つーつーつー。
 嵐のようなコントのような電話に、思わず笑いが零れる。相変わらず騒がしい奴だ。
 死神は、ジャケットと車の鍵を手に取ると、部屋を後にする。


********


「あえ?ロクターら!」
「よ、お嬢ちゃん。ほら」
 3階の角にある個室。ノックしてドアを開けると、天才外科医の助手である少女が、目を真ん丸くして出迎えてくれた。死神は、道すがら買ったケーキの白い箱を少女に手渡した。
「おみやげ」
「あいがと!」
花開くように、少女は喜んで笑ってみせた。みているものがつられて笑い出しそうな、笑顔。
そしてその病室のベッドには、彼の天才外科医が、それはそれは不機嫌な顔で寝かされていたのだ。
「おい」ぎろり。天才外科医は死神を睨みあげ「何故、ピノコがここにいると分ったんだ」
「電話で聞こえた」と、死神。
「聞いてたなら、でろ」
「出る前に切れた」
 その言葉に、天才外科医は口を噤んでから、大きな溜め息を落とした。
K市の市民病院。来たのはいいが何処にいるのかを知らされていなかったのを、到着してから思い出す。
助手の少女の言葉から、入院しているらしい。なにをしでかしたのやら。
仕方がないので、受付で聞くことにした。が、困った事態が発生。あの天才外科医の本名が正確に思い出せない。
「…ハザマ…クロタローかクロオっていう名前だったと思うが…」
「ああ、間 黒男さんならいますよ」
そしてなんとか病室を知ることに成功したが、この事は本人には言わない方がいいだろう。
「で」と、死神。「一体、何があった」
 天才外科医の頭部に包帯。胸元もサラシのようなものがちらりと見える。
「いや、これは…」
「たいちたことないよのさ」
それは少女の声だった。さきほどとはまったく違う、低くて怒りの混じった声。
「ね、ちぇんちぇい」少女は笑った。目は、怒りの炎で燃え上がっていたが「やくじゃの姐ちゃんに気に入られて、そえでちまつされちょーになっても、ちぇんちぇいにはいちゅものことなのよさ!」
「…おい、ピノ…」
「ロクターにお茶買ってくゆ!」
ばたん!小さな体で精一杯、力を込めて、少女は引き戸を閉めていった。よほど怒っているのだろう。
「ヤクザの姐さんねえ」死神は笑いを堪えながら「そりゃあ、お嬢ちゃんも怒るだろうな」
「…姐さんだけじゃない」
ぽつりと、天才外科医は呟いた。
その呟きのさすところを、死神は正確に理解する。
「相変わらず、老若男女に惚れられる奴だな、お前は」
「うるさい!」
「それで、ココか」
死神は窓辺から階下を見下ろした。窓の下は外来玄関口のキャノピーを見下ろすことができる。
「ヤクザが家に押しかけてしたら、お嬢ちゃんが危ないからな。それでわざわざ、市民病院なんかに入院したわけだ」
「まあ、そんなとこだ」
 怒鳴りつけてから、天才外科医は自分がこの死神を呼び出した理由を思い出した。
 別に世間話をする為に呼んだ訳ではない。
「今日から、お前が俺に付き添え」
「は?」
「だから」と、天才外科医。「わざわざここに入院しても、ピノコがいたら意味がない。だから、お前が付き添うから大丈夫だ、と言う事にしたい」
「…お嬢ちゃんが、こういう時にお前を信用しないのは、普段の行いが悪いからじゃないの?」
「俺の頼みが聞けないのか」
 相変わらず人の話を聞かない彼は『俺の頼みが聞けないとは、どういう了見だ』というオーラを、全身から立ち上らせている。まったく、タチの悪い天才がいたものだ。


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