「じゃあ、ロクター!ちぇんちぇいをよろちく!」
 手を振りながら、少女は元気よく帰っていった。
 一人であの岬の家に戻すのは心配だったので、死神の妹であるユリを呼んだ。彼女は兄からの珍しい電話に、やはり笑いながら承諾してくれた。
『ブラックジャック先生らしいわね』
彼女の笑顔は少女と違い、今にも消えそうな儚く脆いものに感じる。同じ笑顔なのに、何故、こうも違うのか。
 女性二人が帰宅した個室は、急に静まり返る。死神は、黙って窓から外を眺めていた。
「どういう連中なんだ」
窓を眺めながら、死神は尋ねる。天才外科医は「お前に関係ない」と言いかけて、口を閉じた。
ここまで巻き込んでおいて、関係ないわけではない。
「香港マフィアの…政道会系列。支部とまではいかないが、麻薬の類のばら撒きを任されている」
「お前…仕事は選べよ」
「俺は選り好みしないんだ」
思いっきりしているだろ…と思いつつ「そういえば」と死神は口を開いた。「政道会に対抗してるのがいたな。新宿の地下カジノを取り仕切っている」
「聞いたことがある」
「それっぽいのが、きたぞ、今」
「は?」
窓の下。キャノピー脇には、今時珍しい黒塗りのセダンが幾つか乗り付けられている。
バタバタと慌しく降りてくるのは、どうみてもカタギには見えない男共。
「…お前」と、死神。「なに、ヤクザの情夫にでもなったの」
「そんなわけあるか!!」
「じゃあ、単純に逃げた方がいいってことか」
 がたん。音を立てて、死神は窓を大きく開けた。冷たい風が室内へと入り込んで心地よい。
 慌てて服を着る天才外科医を横目に、死神は懐から拳銃を取り出して銃弾を確認する。
「…キリコ!それは…」
「早くしろよ、先生」
 壁にある警報装置を、死神は拳で叩きつけた。とたんに館内に鳴り響く非常ベル。
 慌しい足音が、バタバタと廊下に響き渡った。
 そして、その引き戸が開く瞬間、死神はその戸に向かって躊躇なく発砲する。
 乾いた破裂音が二度。非常ベルに掻き消されて、あまり大きく聞こえない。
 着弾は開きかけた引き戸の金具部分に当たり、小さな火花が散った。
 引き戸は中途半端な位置で動きが止まり、ドアの向こうからボソボソと複数の男の声。
「いくぞ、先生」
「まて、キリコ!…ここは3階…!」
「死にゃしねーよ」
 腕を掴むと、死神はやはり躊躇なくまどから飛び降りた。
 だん!音を立てて黒医者二人は、キャノピーの上になんとか着地する。
「お前」天才外科医は、死神の握る携帯凶器を見ながら「ここは日本だぞ」
「日本にも、『正当防衛』ぐらい刑法であるだろ」
「日本は『正当防衛』の前に『銃刀法違反』で捕まるんだ!」
「はいはい」
 わざとのんびりと死神は返事を返す。怪我人の怪我にしろ、今の状況にしろ「お前が引き寄せたんだろ?トラブルメーカーめ」
「それはお前だろ!お前といるとロクなことがない!」
 天才外科医は、自分の外套の内側に素早く手を差し込み、横一線に弧を描いて繰り出した。
 シュッ。空気を切り裂く音が、死神の頬ぎりぎりを通過する。
「ぎゃああ!」
悲鳴は死神の背後から。
天才外科医が外套から手を抜き、弧を描く刹那に放たれた手術器具が、死神の背後の男の右手と左足を正確に突き刺さっている。
 頭上を見上げると、さきほどまでいた病室の窓から顔を覗かせた、チンピラらしき人物が何かを叫んでいた。
「選択の余地なしか」と、天才外科医。
「…お前も大概、容赦がないな」
 背後でのたうち回る男をちらりと見てから、死神は「俺の車は、裏手の来客用のところだ」
「遠いな」
「そうだな」
 黒医者二人は、一瞬だけ視線を合わせた。そして、天才外科医がキャノピー下へと勢いよく飛び降りる。
 その頭上から死神が、拳銃をキャノピー下へと発砲した。
 着弾が幾つか地面を跳ね、それに気をとられ視線を足元に落とした男は、飛び降りてきた天才外科医に殴り飛ばされた。怒声と共に拳銃を構える男は、再び、頭上からの銃弾の雨に身を隠す。
その空白の時をつき、BJは素早くセダンの運転席側のドアを開けた。
思った通り、車の鍵はつけっぱなしだ。
エンジンをかけると、男どもが焦ったように立ち上がった。
「…きっさま…!」
馬鹿の一つ覚えのようにチンピラは拳銃を構えた。
だが彼らはその瞬間に忘れた存在が。
キャノピーから飛び降りてきた死神が、チンピラの前にはだかる。
突然の存在に虚をつかれたのは、やはり実戦経験が浅いせいか。
だが死神は、一般的な日本人とは比べ物にならない程の、戦闘経験があった。
にい…。と笑ってみせると、死神は拳銃の銃身を掴み、素早くそれを捻りあげた。
「ぎゃ…!」
ばきい。嫌な音がチンピラの指と手首から不気味に響く。
蹲るチンピラの顎をを、死神は容赦なく蹴り上げた。革靴であったが威力は充分で、数センチは宙を舞ったチンピラは、地面に叩きつけられても、動かなかった。
「キリコ!」
名前を呼ばれ、死神はセダンに乗り込んだ。
同時に高いエンジン音をうならせながら、黒塗りのセダンは病院の敷地内からとびだしていった。


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