「つまりだ」
忘れた頃に現れる街灯を頼りに、砂利の山道を二人の黒い医者は歩いていた。
夜も更け深夜とも言われる時間帯だ。当然の事ながら、歩行者はこの二人以外には見当たらない。
「政道会を潰す為に利用しよう。…ていうのが、正解だろうな」
「…人をモノ扱いするな…」
「本っ当に、トラブルメーカーだな、お前」
「言ってろ」
 死神の化身の住居がある場所の背後には、ちょっとした山がある。
 散々都内を走り回った後に、その山の向こう下に車を乗り捨て、歩いて死神の住居まで行く腹だった。
 土地感の無い人間であったなら、恐らく気づかれないと思うのだが。
「…ブラックジャック…?」
「…なんでもない…」
 歩き始めて数分。口数が少なくなった天才外科医の様子に気づいた。本人は「なんでもない」を繰り返す。
 だが
「見せてみろ」
 左腹を庇う動きがみられたので、構わず、彼の白のYシャツを捲り上げる。
 弱弱しい街灯照らし出されたその光景に、死神の手が凍りついたように止まった。
 その晒された腹は肌色の素肌はなく、真っ白な包帯で覆い隠されている。
 そして何より死神を硬直させたのは
「お前が無茶させるからだ」
意地悪く、天才外科医は笑ってみせた。
真っ白いはずの包帯は、紅い染みが、それも手のひら大のものが落とされていた。色も鮮やかに、まるで最初からそんなアートであったかのように。
「短刀で刺されて、数針縫った。傷口が開いたかな」
「…内臓は…」
「奇跡的に無事だった」
答えてから、BJは死神を見上げる。「キリコ?」
「済まない…」驚くような言葉を、死神は口にした。「俺が悪かったな…もっとお前の怪我を考えていれば…」
 その言葉に、その表情に。天才外科医はようやく気づく。
 野外、出血、手元に無い治療器具。
 それは死神の化身の持つ、最も忌わしい記憶と結びついたか。
「これぐらいで死ぬか、馬鹿」
 突然、天才外科医は死神の胸倉を掴みあげた。「この程度で死んでいたら、俺はとっくに、あの世ゆきだ」
「それも、そうだな」
「そうだ」BJは手を離し「だから、さっさとお前の家に連れて行け」
「もう少しだ。本当に大丈夫なのか?」
「ここで問答しても仕方がないだろ」
「お前に何かあったら…お嬢ちゃんに申し訳が立たんだろーが」
 少女の話題が出て、今度は天才外科医の口が閉じた。そして、死神から目を逸らし「…俺の方こそ……お前のお陰で、ピノコを巻き込まずに済んだ……礼を言う」
「まったくだ、感謝して敬え」
返された言葉と声色はいつもの死神。
「感謝はするが、敬えるか」
密かに安堵する。そして、悪かった、と。
痛々しい傷を引きずりだしてしまった事を、それを自覚させてしまった事を。
くらり。意識が一瞬だけ歪んだ。
「ブラックジャック…歩けるか」
「歌え」
「は?」
「歌え、キリコ」BJは言った。「こんな暗い山道を死神と歩いているから、気が滅入るんだ。何か歌え」
「…歌えって」死神は答える。「”魔笛”とか”ドン・ジョバンニ”とかか?」
「…一人でオペラが出来るのならな」
「じゃあ、『蛍の光』に『仰げば尊し』」
「んな歌、なんで知っているんだ」
「じゃあ、何を歌えって言うんだ」
「お前の好きな歌でかまわん!」
 好きな歌ねえ…と呟いてから、死神は小さく笑って、口を開く。

 I told you from the start
  Our love will come together
  If we could stand to be apart
  I never meant to break your heart

  I see you in my dreams at night..

「おい」と、BJ.「それ、お前が作ったんじゃないだろーな」
「そんなわけあるか」と、死神。「ユリがよく聞いていたから、覚えていたんだ」
 クサい歌詞だ…と思いつつ、言い出したのが自分自身だったので、BJは黙って聞いていた。
 死神の低くよく通る声は心地よい。
 正直、うまいな…と、思った。
 死神は、淡々と音を紡ぐ。
 何故この歌なのかは、決して言わず、そして尋ねずに。

 I want to love your soul and eyes seriously
 Love you love you love you love you
  love you How should I do?
  love you I'll never get over you
  love you loving you is heaven Missing you is hell
  You are necessary for me
 You love only her......

  
*********


「はい、ちぇんちぇい、お粥!」
「いらん!自分で食べる!」
「らめ!あーんすゆ!」
 少女の剣幕に、天才外科医は口を開けた。少女は嬉しそうに、スプーンをその口へと運ぶ。
「おいちい?」
咀嚼する天才外科医を、少女はジッと見上げていた。
「…ああ」
「よかった!」
 その言葉に、少女はにっこり笑ってもう一さじ、掬った。
 夜明け前に自宅に到着した二人の黒い医者は、手早く開いた傷口の手当てを終えて倒れるように眠りについた。
 いや、天才外科医が何度か起きていたのを、死神は気づいてはいたが。
 朝。妹のユリへと電話をすると、二人はすぐに来た。
 何故、自主退院をしたのかということを、ユリと少女は来てからも口にしない。
 どうせ、面倒に巻き込まれたのだろう。と、そんなに外れていない予想を立てていたからだ。
「はい、完食!」
「ああ、ご馳走様でした」
「おしょまつさま、でしたよのさ」
お膳を手にしようとした時に、少女は、ふわ〜と大きな口を開けて欠伸をした。
「なんだ、眠いのか」
「うん…ちょっと…」
「少し、寝たらどうだ」
「うん…」少女は目を擦りながら、言った。「ちぇんちぇい、何処にも行かない?」
「当たり前だろう」
天才外科医は、自分の寝るベッド上で少し動いて僅かな空間を作り、その場所をポンと叩く。
「ほら、おいで」
「うん」
 笑って、少女はBJの隣に潜り込んだ。

「ねえ、兄さん!」
 珍しくクスクス笑いながら、ユリは兄に手招きをした。「ちょっと来て」
「どうしたんだ?」
 手にしていたマグカップをテーブルに置き、死神は立ち上がる。
 ユリは「見て見て」と、寝室を指差した。
 そこには、天才外科医がいるはずだったが。
 妹に言われた通り、覗いてみた。
 先ず見えたのは、壁に背を預けてベッドの上に座っている天才外科医。
 そして、ベッドの上に投げ出された彼の膝を枕に、少女が気持ちよさそうに眠っていた。
 よく見ると、天才外科医も静かな寝息を立てている。
「二人とも、寝てるの!」ユリは楽しそうに「本当に仲がいいわねえ」
「そうだな」
つられたように、死神も表情を緩ませた。
良かった。と、心から思う。
この光景を、見ることができて。
あの天才外科医を、少女の元へ帰すことができて。
彼が少女と休息をとるのを、見ることができて。

君が少女にだけ見せる、安らいだ表情を見ることができて。





岐路