(11話) 自宅のある町よりも、二つ程山よりの街だった。 友人の幼い息子の熱が下がらないのだと言う。 この雪だ。ここから、設備の整った病院までは救急車でも2時間はかかる。 友人から症状を聞いて、メアリは必要であろう薬を、夫の薬品棚から取り出した。 メアリの専門は、薬理だ。 臨床医としての経験はなかった。だが、夫と共にこの地に住み着き、病院のないこのへんの住民に頼まれて、往診にでる。 最初は戸惑いもしたが、初めて、自分が医師であることを良かったと思ったのも、ここへ来てからだった。 ここで。 エディと診療所でも開ければいいのかもしれない。 それを望む声も、多数あった。 しかし、それを言われるたびに、当のエドワードは困ったように「無理だよ」と繰り返すのだ。 知っている。 彼は、この地で安寧に暮らすことができない。 遠く、とても遠く、大陸すらも違う国に捕らわれる人を、彼は見捨てることができない。 「心臓外科専門の診療所を開けばいいのよ」 いつだったか、メアリはそう言った事があった。「影三クンを呼んで。そうすれば、儲かるわよ」 「…随分、高度な診療所だな…」 それでも嬉しそうに、それでも淋しそうに、呟く夫の横顔は、忘れられない。 Chapter 2-無 謀- キリコを友人のサリーに預けて、メアリはジョルジュの居る山小屋へと車を走らせる。 サリーの息子は、あれで大丈夫だろう。よほどのことが無い限り、急変することはない。 ”影三がいなくなった” 先ほどの電話の内容を、メアリは反芻する。 緊急事態だというのに、彼の口調はいやに冷静だった。 心配していないわけがない。 あまりの出来事に、思考が追いついていないのだろうか。 それとも。 夫のエドワードは、自己抑止力が高く、常に冷静だった。 その人当たりの良い笑顔に好印象をもたれるが、彼はあまり他人に自分を晒す人ではない。 彼は、自分を押さえ込むことに長けている。 鉄壁の理性ともいえるのか。 メアリは、湖畔の山小屋に、車をのりつける。 エドワードのランクルがなくなっていた。影三クンが乗っていったのだろうか。 運転免許を保持しているとはいえ、この積雪で慣れない山道は危険だ。 車から降りて、メアリは玄関のドアを開ける。 「エディ?」 室内に明かりはなかった。静まり返った室内。メアリはゆっくりと室内を見回した。 いた。 彼は、本来なら影三がいるはずの部屋に、いた。 ベッドに腰掛けて、うな垂れている。 室内は、嵐がきたかのように滅茶苦茶だった。 「エディ?」 声をかける。だが、彼は微動だにしなかった。 何があったのかは、知らない。 だけど、うな垂れる彼から、徒ならぬことが起きたことは分かる。 まるで、まるで、一回りも、二回りも小さくなってしまったかのようだった。 できれば、このまま消えてしまえれば、本望か。 「エディ」 室内の電気を点ける。パッと明かりるくなり、室内の悲惨な荒らされ具合が鮮明になった。 彼女は彼の目の前まできた。だが、彼は動かない。 うな垂れる頭髪の灰銀色が、まるで老人の白髪のようにさえみえるほど。 彼女は、その頭部を、力一杯殴りつけた。 ベッドの上で、彼は僅かによろめいた。すかさず胸倉を掴むと、右拳を振りかぶり、得意の右ストレートを夫の左頬にぶちこんだ。 ボカッ!人を殴ったときの、独特な音と衝撃が室内に響く。 「…メアリ…」 「何やってるのよ!」 殴られて左頬を押さえる夫に、メアリは今度は左手を振りかぶり、平手をお見舞いする。 ばちん! 「痛!」 「当然でしょう」と、メアリ。「今度は何、ワザでもかけてほしい?コブラツイスト?キャメルクラッチ?」 「すまん、わかった、目が覚めた」 痛む頬を押さえながら、ジョルジュは立ち上がって「…3時間程前に影三がいなくなった。置手紙つき」 手渡されたメモ帳を、メアリは見る。 なんて簡潔で、彼らしい。 「3時間って、なにしてたの……」 言いかけて、メアリは口を噤んだ。 今はよそう。それを追求したところで、事態は好転しない。 「ランクルがなくなっていたわ」 「…そうか」 上着を着込み、ジョルジュとメアリは車に乗り込む。 メアリの車ではないタイヤ跡は、山の方へと続いていた。 「どっかで事故っていなければ、いいけど…」 呟きながら、メアリはそれでも最悪の事態も想定する。事故って居る方が、きっとまだマシなほうだ。 彼がいなくなった事。 口にはださないが、メアリもジョルジュも一つの可能性を考えていた。 恐らく彼は、自らの生命を絶つために、行方をくらましたのではないか、と。 だが、それも可能性の一つだ。確定した事実ではない。 現に彼は車を使用している。自殺を考えているのなら、遠くへ行く必要は無いはずだ。 だから、この失踪は、別の理由がある。 そう信じながら。 「……私が…」 消え入りそうな声で、ジョルジュが口を開いた。「…私が、影三を…苦しめているんだ…」 「は?何言ってるの」 夫の後悔交じりの声色を吹き飛ばすように、メアリは答える。 だがジョルジュは、苦しそうな表情で、言った。 「またビデオテープが送られてきた…最後に、キリコの影像があった…」 ビデオデッキに入れっぱなしのビデオテープ。 見覚えのないそれは、例のホテルでの陵辱と、そして息子の姿。 息子の通う学校で撮られたそれは、恐らく、脅迫。 いつでも、お前の息子を、奪えるぞ。 これを影三が見たならば、断片的にでも思い出してしまっていたのなら、最悪な結果を彼が選んでもおかしくはない。 キリコを、子どもを巻き込むことを、彼は恐れている。 ジョルジュの家族を、巻き込むことを。 そして、 「あれは、見せしめだ」ジョルジュは言った。「あの男は、私に…影三をみせつけている……自分が手に入れることのできない、大学時代を、過去を、私と共に過ごしていた時間を…妬んでいる」 奴は、影三の総てを手に入れたがっていた。身体や心や、過去も未来も。その総てを。 身体と未来を、奴は手にした。 だが、精神と過去は…。 「…私が…影三に出会っていなければ…彼を愛さなければ……彼はあんなに…苦しめられなかったかもしれない…… 私が、私がいなければ……!」 君を守りたいと思うのに、それが仇になってしまう。 私が元凶だというのなら、私を殺してしまえばいいと思うのに。 それなのに、いつも辛い目にあうのは、君だった。 君を、君をあらゆる災厄から守りたいと思うのは、本当なのに、それが、その思いが君を追い詰めてしまう。 私がいなければ、こんなにも苦しまなかったのか。 私がいなければ、君はもっと楽に生きられたか。 私が、いなければ。 「…馬鹿じゃないの?」 「え?」 「馬鹿じゃないの」もう一度、メアリは言った。「男って、本当に馬鹿ねえ。呆れるわ」 「……メアリ…人が真剣に悩んでいるというのに…」 「そこが馬鹿なのよ!」 ぼか! 運転しながらの右ストレートパンチは、危険です。 「危ないだろ!」 「エディが馬鹿なことばかり言うからよ」 「馬鹿って言うなよ」 「馬鹿よ、大馬鹿!インテリ馬鹿!」運転しながら、メアリは告げる。「誰が悪いって、全満徳に決まってるじゃない!あの男はね、エディがいなくたって、影三クンに酷いことするわよ。そういう人間でしょう?影三クンが、そう言ったの?エディがそんな事を考えているって知ったら、余計に悲しませるわよ!あなたは、影三クンと過ごした過去を消してしまいたいって思っているの?影三クンの存在を!」 過去がなかったことに、なれば。 もしも、彼に出会わなければ。 「守りたかったんでしょう?影三クンを。愛おしいって思ったんでしょう?くだらないことで悩まないで。あなたがいたから、影三クンは救われていたのかもしれないのに」 不安を煽るのは、奴の得意技じゃないか。 不安を煽り絶望に導き、まるで毒のように蝕み、精神を粉々にするのは。 「そうだった」彼を愛したことを、何故、否定する。「…ありがとう、メアリ」 「当然よ!」 動かせない事実なのに。私が、君を愛したことは、消せるはずの無い過去なのに。 だから、お願いだ。おいていかないで。君が、君の存在を、この世から消してしまわないで。 山道を更にのぼると、舗装された大きな道路にぶつかる。 街まで繋がっている道路だ。 その道路出る手前の細道に、ランクルが乗り捨ててあった。 「…ここから、森へ入ったのかしら」 道路の両側は、暗い森だ。昼間でも暗いそこは、夜では闇そのもののようだ。 「いや、もしかしたら」 ジョルジュは、道路を見ながら「影三は、ここでヒッチハイクでもして、もう、別の場所へいったかもしれない」 「ええ?」 あまりの突飛な考えに、メアリは「どういうこと?」とついていけない。 「この車は森へ入ったと見せかける、ダミーかもしれない」 影三は、死んだら黒男を身代わりにすると、脅されていた。 だから簡単に命を絶つとは思えなかった。 だが。 「行方不明を、狙っているのかもしれないな」 それなら、死んだのかどうかが分からない。 死んではいないのだから、その脅しは無効だ、ということか。 そして、彼の今の体力を考えれば。 「ヒッチハイクだなんて、警察に連絡した方が…」 「ダメだ」ジョルジュは言った。「警察は、奴の組織の手が回っている可能性が高い…」 どうすればいい。 ジョルジュは、空を見上げる。 白い空からはいつの間にか、粉雪が冷たく降り始めていた。 寒い、寒い冬の夜。 影三。 今、君は何処にいる。まだ完全ではない、その体力で。 あんなにも寒がりな彼が、冬山で行方をくらますなんて。 唐突に、メアリの車載電話が鳴った。 「あら…サリーかしら」 少し表情を曇らせて、メアリは車へと戻る。 小さく息をついてから、ジョルジュは自分のランクルの内部を見た。 何か、何か手がかりはないだろうか。 だがその小さな期待は、空振りにおわる。 強いて言うのなら、ランクルに積んであった長靴がなくなっていたぐらいだった。 「…影三…」 助手席に手を置き、名前を呼ぶ。 君の席はここだったのに。初めてこの車を見たとき、君は怒ったよね。 ”トヨタの……ランクル……って……俺は軽四しか持ってなかったのに!それも中古のッ!!” 自分も欲しかったのだと、言っていたな。 日本に移住した時、日本の自動車免許を取りに行ったとか、東京は駐車場代が高かったとか。 そんな他愛もない会話が、もう遠いことのようだった。 それは、それは、昨日までの日常だったのに。 暖炉の前で、コーヒーを啜る君の姿は、もう見ることができないのか。 「そう、分かったわ。ありがとうキリコ、よく知らせてくれたわね、いい子」 車載電話への受信。相手は息子のキリコだった。 どういう奇跡か、キリコが行方不明の影三に会ったという内容だった。 『ねえ、ママ』 受話器を置こうとする寸前、息子は遠慮がちに言葉を繋ぐ『…おじさん、おばさんのところに行くって行ってたよ …おばさんは、今、山小屋にいるの?くぉちゃんは、日本でお留守番?』 息子の言葉に、返答を失う。 それでもメアリは気丈にも「ごめんね、キリコ」と言葉を返す。「電話では、うまく説明できないわ。いまからそっちに向かうから、待ってて」 「…ダニエルの街だって?」 駆け寄ったエドワードが、驚いたように声をあげる。「…随分、遠いな。やっぱりヒッチハイクか」 「とにかく、急ぎましょう」 メアリは答える。 おばさんのところに行くって、言ってたよ。 息子の言葉を、メアリは思い出す。 最悪な予感は的中した。 だが、今、夫にこの事を言わない方がいい。 静かにメアリは結論付ける。 降雪は勢いを増し、数センチの距離も見難かった。 そんな天気の中、山へ入った人間がいるということで、山岳警備隊の人間や近所の人がダニエルの家に集まっていた。 無茶とも言えるスピードで現れた車に、正直皆が驚いた。 「キリコ!」 そのスピードの勢いのまま、運転席から降りてきたのは、ジョルジュだった。 彼は、息子の前に膝まづくと、久しぶりに見る息子の頭をゆっくりと撫でる。 「…久しぶりだな…」ジョルジュは言った。「影三……くぉちゃんのお父さんを見たというのは、本当か」 「うん」ゆっくりと、キリコは頷く。「まだ、元気がなさそうだったのに…山へ入っていったんだ…おじさん、自分のことを”普通じゃない”って言ってた…」 「…そうか…」 答えるや否や、ジョルジュは立ち上がり、玄関へと向かおうとした。 それを驚いて止めたのは、ダニエルだった。「エドワード、まさか、探しに行くつもりか?」 「…猶予は、ない」 「無茶だ!この天候じゃ、二次遭難決定だ!」 「彼は私の患者だッ!!」手を振り払い、ジョルジュは叫ぶ。「今の彼の体力では、天候回復まで持たない!…確実に、死んでしまう…確実に……!」 「エドワード…」 この男が声を荒げるのをみて、その場にいた人間は驚きを隠せない。 彼は、いつだって温和に笑っている、そんなイメージがあったから。 「だが、行かせられない」警備隊の隊長が、ジョルジュに告げる。「ドクタージョルジュ、あなたにはメアリと子ども達がいる。そして、私たちにもあなたは必要な人だ。捜索は我々の仕事です」 「駄目なんだ」それでも、ジョルジュは言った。「彼は、神経症の症状がある。私じゃないと、怯えてしまう」 「緊急事態です、堪えてください」 「私じゃないと、駄目なんだ! 私じゃないと…」 「エドワード!」 「離せッ!」 出て行こうとするジョルジュを、数人の男が慌ててとめる。 こんな天候に捜索など、自殺行為だ。 そのことは、ジョルジュだって分かっていることだった。 だが、その常識よりも、彼を見つけ出す事の方が。 だって知っている。このままだと確実に、彼は死ぬ…! 私の知らないところで、私の手が届かないところで。今、探しに行かなければ、もう二度と彼に会うことは叶わない。 「離してくれ!頼む…私が、私が行かないと…!」 「エドワード、落ち着けっ!」 4人かかりで、ジョルジュは押さえつけられた。それでも彼は、尚も振り払おうと必死だった。 それは執着のような、何故、ここまで必死なのか。 医師の使命感、責任感。それとも何か違うような微かな違和感が。 唐突に、ジョルジュを拘束する男性が投げ飛ばされた。 不意をつかれたとはいえ、男性は次々とジョルジュからひきはがされ、投げ飛ばされる。 「うわっ!」 「メアリっ!?」 投げ飛ばされた男性は、腰をさすりながら、信じられないものをみるように、凝視する。 ジョルジュの前で、まるで彼を守るように仁王立ちするのは、彼らを投げ飛ばしたのは、彼の妻のメアリだった。 「エディ、行って」メアリは言った。「影三クンを助けられるのは、あなたしかいないんだから、早く!」 「メアリ…ありがとう…!」 「エドワード!」 止めようとする男の前に、メアリは立ちはだかる。それは、たじろぐほどの殺気をもって。 「メアリ!」 「隊長と、ラルフはついて行って」 「わかった」 メアリの言葉に、警備隊の人間は頷き、ジョルジュのあとを追う。 それ以外の人間は通す気がないように、彼女の気迫は凄まじかった。 「メアリ」ダニエルは、ゆっくりと口を開く。「何をしているのか、分かっているのか。エドワードに何かあったら、どうする気だ」 「これは、エディの問題なの」メアリは答える。「これでエディが死んだら、それまでの男だったって、それだけよ!」 彼女の言葉に、その場にいた人間は息をのんだ。 凄まじい気迫と、彼女の言葉。 それは、それは、なんなのか。 母の言葉に、キリコはキュッと口元を結ぶ。 父は何かと戦っているのだろう。 それだけは、なんとなく、分かった。 それが、勝ち目がない戦いであることも。 次頁