(12話) 寒さは、冷たさを通り越して鈍い痛みへと変わっていた。 手足は他人のもののように重く、少し動かすだけでも力を込める。 横殴りに流れ降る雪と、降り積もった雪が豪風に舞い上がり、吹雪となって天地をも分からぬほどの猛威を振るう。 それでも、影三は歩みを止めなかった。 一歩進むごとに、体力は削げ落ち、激痛が全身を走るが。 よかった。 小さく、安堵する。 これほどの吹雪なら、捜索は出ない筈だ。 たとえジョルジュが自分を探しに行こうとしても、周りが彼を止めるだろう。 だって、彼はこの地には必要な人間だ。 だから、早く進まなければ。吹雪が止む前に。 Chapter 2-夢 魘- もっと早くに決意するべき事だった。 彼をあんなにも追い込む前に、行方を暗まし、人に見つからぬ場所で命を絶つことを。 その死を決して知られてはならない。 何処かに潜伏し、息を潜めて、機会を覗っていると思わせなければ意味がない。 それなのに、この数ヶ月の生活が居心地がよくて、楽しいと思った。迂闊にも。 彼には、エドワードには申し訳ないと思う。 彼の好意を、こんな形で利用し、そして裏切った。 もっと、もっと、もっと早くに決意すべき事だったのに。 でも、大丈夫。 彼には家族がいる。そして、必要としてくれる人々が。 俺がつけた恐ろしい傷も、必ず、癒える。 だから、同時に俺など忘れてしまって欲しい。こんな薄情で恩知らずな人間など。 自分には、今、体力がない。 だから、近場で自殺を図ると思わせなければならなかった。 連れ戻される危険を考えれば。 彼のランクルを拝借し、山の幹線道路へ出る必要があった。 彼が車で追って来れなくするためと、その幹線道路から別の町へ行く為に。 天候の荒れる前であったので、轍から外れる事無く、なんとか運転することは出来た。 幹線道路より手前で車を乗り捨て、トラックのヒッチハイクに成功する。 どうやら女性と間違えられたようだったが、違うと分かると、今度は学生と間違えられ、好都合ではあった。 身内が重病だが金がないということを告げ、駅のある町へ送ってもらえた。 山沿いの町であることも好都合だった。 交通機関があれば、万が一逃走経路が遠方への可能性がでる。 駅前で降ろしてもらい、駅員に終着駅をわざと聞いた。 それから。 「学生さん、金がねえのかい?」 やはり長距離トラックの運転手が、声をかけてきた。 一部始終を見ていたという彼は、どうやら、駅員に尋ねたが、金がなくて諦めたと思ったらしい。 「途中までだが、乗っけてやるよ」 ありがたい申し出に、甘えることにした。 そこは、山間の町で、町外れからはすぐに山へ入ることができた。 ここなら、なんとかできそうだ。 そして、何の因果か、エドワードの息子に出会った。 雪に足を取られて、影三は倒れこむ。 寒さはすでに痛みすらも奪い、痺れと重さと鈍さだけを植え付けて、一つも動かすことができなかった。 少しだけ、少しだけ休めば、動けるようになるかもしれない。 雪の硬さが苦痛だったが、すぐに感じなくなった。 少し休むだけ、休むだけだ。 ここで意識を失っては、発見されてしまう。だから、休んでから、すぐに立ち上がろう。 逃げだな。 不意に声が聞こえる。聞き覚えのある声に、そちらをむいた。 滲む視界。白と灰色をぐちゃぐちゃにかき混ぜた背景に浮かび上がるのは、影三自身だった。 まさか、鏡があるわけがないし、もし鏡だとしても、今、影三はうつ伏せに倒れている。 ああ、お前は、死神だな。 そう思うと、もう一人の己は皮肉気に笑って見せた。 そうだ。俺は馬鹿な奴には姿をみせるのさ。 告げると、己は瞬時に姿を変えた。 それは、会いたくて、会いたくて、そして、血を吐くほどの謝罪も、大海ほどの涙を流しても 決して償いなど二度とできない、姿に。 栗色の髪に朱色の瞳。この手で抱きしめて、離したくないと、守りたいと神に誓った君が。 「…みお…」 掠れた声が出た。手を伸ばして、触れたかった。君に、君に、会いたかった。会いたいと思っていた。 その手で触るの。 死神の声。抑揚のない、無機質な。 影三はぎくりと肩を震わす。 そうだ。俺の手は、薄汚れている。 満徳の事だけじゃない。 非道な人体実験を命じられまま繰り返し、罪のない命を奪い続けた。 罪のない人々の呻く血液が、いくら洗浄しても洗い流すことができない。 この手は、真っ赤に染まり、いつしか死臭さえが漂うだろう。 この白い雪が、俺の手を中心に、じわじわと赤黒く、染まっていく。 美しい白銀が赤黒く腐り果て、腐敗物が満たす沼となり、その中心で俺はゆっくりと沈んでゆく。 ああ、ごめんなさい。 俺の命なんかでよければ、俺は、いつでも差し出すべきだった。 みお、みお…俺は、君のいる天国にはいけるはずがないのだけれども、それでも、一目だけでも見ることはできないのだろうか。 無理だね。 そうか、無理か。 あんたは、汚れすぎているから、みおだって会いたくはないよ。 …そうだね。みお、俺は君に会う資格なんてない。でも、でも、愛していた。君だけを、ずっと愛している。 星の営みほどの時間を過ごそうと、世界の果てまで捜そうと、俺は、君以外の魂を愛することはできないよ。 ずるいね。 何がだ、死神。 あんたは、そういうけど、あんたを愛してるって言ってくれる人、もう一人いるだろう。 …エドワードの事か?…彼は、彼が愛しているのは、俺じゃない。メアリさんだ。メアリさんと、子ども達だ。 嘘つき。気づいているくせに。 嘘なんか、ついてない。 嘘つき。 またもみおが瞬時に姿を変える。それは、さきほどのアイスブルーの瞳を持った少年の姿へと。 少年は、灰銀の髪を揺らしながら、それでも澄んだ発声で言葉を紡ぐ。 嘘つき、本当は気づいているんでしょう? …違うそうじゃない。死神、卑怯だ。何故、そんな姿になるの。 本質が近いからさ。あんたもちゃんと生き続ければ、分かることだよ。 きいちゃんは、死神じゃない。近い姿だというのなら、本来の姿に戻ればいい。 へえ、あんた無茶を言うな。嘘つきのくせに。 何度も言わせるな。俺は嘘をついてない。 嘘だ。パパは、おじさんを愛している。僕たちと出会うずっと前から、愛している。おじさんだって、知っているでしょう? 昔はそうかもしれないけど、今は違う。エドが愛しているのは…。 眼を背けないで。パパは、パパはずっとおじさんが好きだったのに、おじさんはそれを受け入れなかった。全満徳の時と同じように。 違う!俺は…俺は、エドが好きだ。敬愛している。…でも、俺は、同性を愛するのは、どうしても駄目だった… 俺だって、エドを愛したかった!いや、愛していたと思う。だけど…心だけ、なんだ。 エドは、それでも構わないって言ってくれたから…。 ああ、そうだよ。俺はその優しさにつけこんだ。信頼してくれる彼の心を逆手にとって、俺は、安寧できる場所を確保したかった。 怯えながら寝るのは、もう、イヤだった。 だけど、だから、こんな俺がみおを愛しているなんて、おこがましい…。 だから付け込まれたんだ。俺の浅ましい醜い欲を、満徳が嗅ぎつけたんだ。 それを全部ひっくるめて、あんた自身だろう。 そうだ、それは全部俺自身のこと。紛れもない事実だ。 背負う覚悟をしろ。 え? あんたは背負ったんだ。だから、ここで死ぬのは、違反行為だ。あんたは獣になってでも生きなくちゃならない。 背負う? そうだ。あんたはもう、勝手に死ねる身分じゃない。 どうして。俺は、俺が生きていれば…俺は負の存在でしかない。 自分を否定するの。 キリコが掻きえたかと思うと、姿が変わる。紅い、紅い瞳をもった、少年に。 黒男…! パパ、ぼくは死なないとならないんだね。 どうして!黒男…俺は…。 だって、一人で生きていくなんて、できない。僕は、ママを捨てたパパを恨んで、憎んで生きている。 パパが死んだら、僕には何もない。 ……黒男……。 僕は、それでも生き続けなければ、ならないの。 ねえパパ。僕は、パパを殺したいほど憎んだよ。だって、ママを裏切ったんだよ、ママは死ぬまでパパを信じてた。 許してあげましょうって言ったんだ。だけど、僕は許さないよ、許せるわけないよ。それが僕の生きる目標なんだよ。 …黒男……。 ねえ、パパは、パパは本当に僕を愛してくれていたの?僕はいらない子だったの? 僕は死んだ方が、いいの? …違う…黒男……俺は…! 微かに聞こえる肉声。 ぎくりと、影三は体を震わせる。 まさか、捜索ではないだろうか。 まるで他人のものかのように、いうことを聞いてくれない体を、影三は無理やり動かして、立ち上がる。 すでに、自分の体の上は、数センチの雪が積もっていた。 逃げなければ。 必死で体を動かして、影三は歩みを進めた。 まただ、あの肉声。 だめだ早くしないと、見つかってしまう。 恐怖にも似た感情で、影三は歩き出していた。 絶対に、絶対に見つからないように。 次頁