(13話) エドワードには家族がいる。 だから大丈夫、俺がいなくても、必要としてくれる人がたくさんいるから。 だから、大丈夫。 ------彼はそう思っている。 方向の感覚すらも狂う猛吹雪だった。 気をしっかりと持っていなければ、すぐにでも、吹き飛ばされそうなほど。 この中に、彼は必ずいる。 早く、早く見つけださなければ、ならない。 彼は恐らく、安全など考えていない。 「ドクター!戻りましょう!」 何度となく言われる提案に、ジョルジュは決して首を縦には振らない。 Chapter 2-覚 悟- 彼は、行方不明になることを、望んでいるはずだ。 その死を決して知られてはならない。 何処かに潜伏し、息を潜めて、機会を覗っていると思わせなければと考えて、これだけの偽装工作をしたのだろう。 まだ、彼の体調は万全ではない。 それなのに、短期間でこんなにも機転が利くとは、恐れ入る。 だけど。 大丈夫だ。私は、必ず彼を見つけられる。 根拠の無い確信だったが、自信はあった。 絶対に彼を連れ戻せる。 それは何故かと問われても、明確な答えなどない。 だが、自分は、誰よりも彼の近くにいる人間なのだと、信じている。 白銀の猛威は人事など無力だと言わんばかりの、激しさだった。 警備隊の人間ですら、進むのを躊躇する豪風の中を、ジョルジュは突き進む。 それは、ほとんど執念のような、医師としての責任感にも見えたが、それではない。 そんな建前ではなかった。 ただ、彼を失うのが、怖かったから。 影三…私は、私が生きるには君が必要なんだ。 君が生きるのに、私は必要ないかもしれないが。 彼の体力を考えれば、恐らく、そんなに進んではいない筈。だが、同時に彼の命にも関わる。 どこかで倒れ、雪に覆われてしまえば、絶望的だ。 視認が難しいだけではなく、体温で解かされ水分となった雪は、体を冷やしてゆく。 末端の凍傷。低体温、そして、死に至る。 「影三ッ!!」 耳を千切りそうな寒風に負けじと、ジョルジュは時折叫ぶ。 耳鳴りのような風の音に、肉声は届くはずは無い。 だが、それも一般論だ。 不意に視界に何かを感じた。それは、勘に近かったが、だけど、それは。 「あっちだ!」 夢中で豪雪を掻き分けて、ジョルジュは進む。警備隊の人間が何かを叫ぶが、聞くつもりなどなかった。 降雪に加え、積雪の粉雪が豪風に舞い上がり、視界を白一色へと塗りつぶす。 ホワイトアウトと言われる気象現象だ。視界を奪い、方向感覚を奪い、人間など一溜まりもない。 頭を低くして、突き進む。自分の勘だけを頼りに。 人間の勘など、自然の脅威に適うはずもない。 だが、それでも、彼に対する勘だけは、確信があった。 ここで、彼を助けることができなければ、自分は生きる資格などない。 夢中で何かを追うと、突然目の前にそれは現れた。見覚えのある、ウィンドブレーカー。 「影三!!」 彼の腕を掴むが、振り払われた。振り払った勢いで、影三はぐらりと揺れて、雪の上へと倒れこむ。 「影三…」 名前を呼ぶが、恐らく届いてはいない。 だが、 ぽろぽろと、涙を流すのが、ジョルジュには、はっきりと見えた。 その涙すらも、すぐに雪と共に肌へと張りついてしまう。 そして、口が微かに動く。 ”ごめんなさい” と。 「…大丈夫、問題ない…」 そして、ジョルジュは笑ってみせた。 人が安心するような、優しい微笑を。 「発見したのか!?」 遅れてやってきた警備隊の二人は、驚いたようにジョルジュと影三を見る。 そして、安堵したような笑顔をみせてから、すぐに表情をひきしめた。 「…彼の体力は…無理そうだな」 隊長は影三の顔を覗き込み、そして「ラルフ、ドクター、ここでビバークしよう。これ以上は危険だ」 「わかりました!」 「ドクター」隊長は言った。「一時間だ。それまで彼を持たせてくれ」 「…わかった」 二人は適当な斜面をみつけ、雪洞を掘り始めた。 ジョルジュは隊長から手渡された保温シートを影三の体に巻き、豪風に飛ばされないように抱きしめる。 いや、それは、いい訳だが。 「影三…生きててよかった…」 手袋をはずし、ジョルジュは彼の頬に触れた。 指先は悴んで、うまく動かすことができない。 それでも、彼の冷たい頬の僅かな柔らかさに、嬉しくなる。 影三は生きている。 「エド…俺は……ごめんなさい…」 「いいんだ、影三…、もう、いいんだ…」 彼を強く抱きしめ、その頬に自分の頬を摺り寄せる。 「影三…影三……愛してる…影三…」 風に消え入りそうなほど、弱弱しい言葉だったが、それは確かに影三の耳に届いた。 まどろむ意識には、何も思い浮かばなかった。 ただ、その言葉がひどく心地よい。 ああ。その言葉は、そんなにも綺麗で、温かいものだったのか。 山岳警備隊の尽力により、ほどなく雪洞が出来上がった。 手馴れた手つきで、その雪洞内にツェルトを三角に張り、4人は入り込む。 3人用のツェルトであったため、少し手狭ではあったが、外よりもずっと快適だった。 ジョルジュは影三を抱きかかえたまま、彼の腕に点滴用の針を刺した。そして、点滴パックに繋ぐと、それをツェルトの支柱にフックでかけるよう頼む。 これで、彼の衰弱は幾らかは解消されるだろう。 シュラフは二つしかないので、一つは影三が使用し、もう一つを交代で使うことにした。 「エドワードは、腰を落ち着けるつもりはないのか」 ラルフが眠ってから、隊長が話しかける。 彼は、ジョルジュの昔なじみでもあった。 困ったように笑うジョルジュを見て「君は」と隊長は言葉を続ける。「昔からそうだったな。控えめに笑って、自分を晒すことがない」 「そうですか?」 「キリコは君にそっくりだ」隊長は言った。「聞き分けがよくて、控えめに笑って…少しはメアリの血が出ればよかったのにな」 聞き分けがいい。 子どもなのだから、もっと我侭を言える立場なのに、少年はそんなことを言ったことは、一度もなかった。 優しい子なのだ。自分よりも、他人が傷つくことの方が、少年には辛い。 我慢を強いていると思う。 「彼なのか?」 「え」 隊長の言葉に、ジョルジュは警戒の色を滲ませた。 そんな表情に隊長は「オフレコだ」と笑ってみせた。「…君が何度もアジアに行くのも、ここに腰を落ち着けないのも、大切な友人の為だと、メアリに聞いたことがあってね」 「…彼女が?」 「俺が無理やり聞きだしたんだ、メアリは悪くない」 慌てて、隊長は弁解する。そして影三を見た。 「さっきは驚いたな、エドワードが怒鳴るなんて、40年生きてきて、初めて見たよ」 「………私は…」慎重に、慎重にジョルジュは口を開く。「…彼を…裏切ったんだ…だから……私は償いを…」 「そうか」 静かに、隊長は答えた。 そしてそれっきり、その事を、聞くことはなかった。 温かい…。 心地よくて、安心感に包まれているようだった。 こんな気分になるのは、どれだけぶりだろう。 死に損なったな。 無機質な、抑揚のない声が響いた。 そちらを向くと、随分と近い位置に、若い男が。 死神か。 自分でも驚くほど、穏やかに尋ねていた。 長身、白銀の髪は肩ほどの長さで、片目が髪で隠れて見えない。服装は黒いスーツ。 随分と、色男なんだな、死神。 そいつはどうも。そんなことを言われるとは、思わなかったな。 俺は、死ぬのか? 死にたいのか。 尋ねてくる死神に表情はなかった。ただ、その碧眼が細められている。 死ねない…。俺は、死に損なった…だから俺は、生きつづける。 へえ。 黒男は、生きているんだろう?…だったら、俺はあの子を守るために生きなければならない。満徳があの子に手を伸ばさないように、 俺は、俺は、そのために生きる。 息子のために?恩着せがましいな。 何とでも言え。俺は、あの子が生きている…その事実だけで、生きていけるんだ。 本当に?後悔しないのか。 しない。俺は死なない。俺は、生きつづける。絶対に。 へえ。 死神…もう一度、会えないか。 誰に。 黒男に…幻でもいい。もう一度だけ、会うことは、できないか。 いいよ。手向けだ。地獄への。 キツイ言葉だな。 男の姿がゆらりと歪む。まるで粒子が掻き消えると同時に、男の姿は少年へと変化した。 ゆっくりと、ゆっくりと、影三はその少年を抱きしめる。 小さかった。こんなに小さかったか。もう、二度と会うことができない、息子は。 「…黒男…」 零れ落ちる名前。 ■■■■ 数時間後、吹雪が奇跡的にやみ、4人は下山することができた。 点滴のおかげか、影三は衰弱はしていたが、命に別状はなかった。 ダニエルの家で保温しながら、もう一本点滴を打ち、彼らは湖畔の山小屋へと戻るという。 「パパ」少年は、不安そうに見上げながら問う。「おじさん、元気になるよね」 「ああ、必ずね」 「あとね」少年は言った。「おじさんは、おばさんに会えなかったの?……おばさんは、どこにいるの?」 息子の言葉に、ジョルジュは言葉を失った。 見上げる不安そうな表情は、恐らく、何かを悟り、そしてそれが正しいのか、間違いなのかを知りたがっている。 「おばさんは、ここにはいないよ」 呟くように、ジョルジュは答えた。 ほかにいい言葉が見つからなかった。 ツェルトの中で呟いた、名前。 それは影三の、最愛の息子の名前だった。 夢を、見ていたのだろうか。 夢を見ることができたのだろうか。 彼は、彼は二度と息子に会う事はできない。 あんなにも愛した自分の息子に、会う事はできないのだ。 影三、君はすべてを失ったんだよね。 私は君が失ったものを持ち、そして尚、君に地獄を見ろと、言い聞かせる。 なんてエゴイストなのだろう。 それでも、それでも君に生きて欲しいと、思うんだ。 次頁