(15話)





『お前から、連絡が来るとは思わなかったよ』
受話器から響くのは、できるなら一生聞きたくない声。実に愉快そうに笑う、声。
「そうですか?」ゆっくりと、影三は答える。「連絡をしなければ、アンタは何をするか分からないだろう」
『賢明な判断だ』
 できるなら、一生聞きたくない声。
 だが、ここで逃げるわけにはいかない。
 そう覚悟は決めた。腹も括った。
「来月一日に戻ります」ゆっくりと、告げた。「長期休養を感謝します」
『ああ、長かった。お前が恋しくてたまらない』
 情熱的な科白。だがそれは、狂気と嗜虐を待ち望む、呪言。








Chapter 2-時 限-








「影三?ドコだ!」
「ここにいますってば」
 一日に何度か繰り返される遣り取り。
 姿が見えなくなると、ジョルジュはすぐに影三を捜す。
 心配性のようだが、目を離した隙に拉致されたり家出したりした経緯があるのだから、仕方がないのだろう。
 だが、それが高じてトイレまで押しかけたりするのは如何なものかと思うのだが。
 今日も煙草を吸うために外へ出ていた時に、名前を呼ばれる。
 返事をすると、数秒後に彼は現れた。
「喫煙は感心しないな」
 安堵した表情を見せ、ジョルジュは喫煙を嗜めながらも自分も彼の持つ箱から一本抜いた。
 それを口に咥えると、彼に顔を近づけて火をもらう。
「ずいぶん、きついな」
 紫煙を燻らせながら、ジョルジュは小さく呟いた。「君にしては、珍しい」
「気分転換ですよ」
 山小屋の傍にある湖畔を眺めながら、彼は答えた。
 もう、ここへ来て、季節が一巡する。
 病人食ではあったが、食事も摂れるようになった。情緒も安定し、体力もついた。
 夢に魘される事も激減した。
 日常生活を送る上で、支障はなくなったとも言える。
 だが、彼はすっかり痩せてしまった。
 女性のように華奢になり、触れれば容易く折れてしまいそうなほど。
 ここまで回復したのだ。そろそろ、あの男が動き出す頃だろう。
 絶対に、彼を渡さない。
 二度とあの組織には返さない。
 ジョルジュは決意を固めていた。それには、メアリの言葉もあった。
 そう、彼女はいつでも真実を恐れずに突く。
「そろそろ、旅行にでもでてみないか」
「旅行?」
不思議そうにこちらを見る彼に、笑いかけながらジョルジュは言う。
「ヨーロッパか、その辺か。状況を見て、日本にも行こう。今すぐは無理だが、必ず」
「…エド…?」
「近いうちがいい。明日にでも発つか」
ジョルジュの言う急なプランに、胸が痛んだ。
ああ、この人はやはり勘がいい。
「無理ですよ」影三は、言った。「それに、俺、」瞳を伏せ、でもはっきりと。「組織に、戻ります」
 ぽとり。ジョルジュの咥えていた煙草が地面に落ちて、火が消える。
「な、んだって…」
 辛うじて、言葉を。だが、それ以上の言葉が続かない。
 まるで後頭部を殴打されたかのような、衝撃だった。
 目の前が真っ暗になるというのは、このことか。
「自分で連絡をいれました」それでも影三は、言葉を続ける。「これ以上は長居はできない…あの男が動く前に。タイムリミットなんですよ」
「影三っ!」
 彼の華奢な両肩を掴んで、ジョルジュは声を荒げていた。「どうして、どうしてそんな事をしたんだ!今度こそ、殺されるぞ!」
「殺されません。俺は大丈夫」
「大丈夫じゃなかっただろッ!」
悲鳴に近い声で、ジョルジュは叫ぶ、どうして、君がそんなことを。
「返さない、絶対に君を満徳の元へなど返さない…!大丈夫、私が必ず君を解放するから…」
「エドワードっ!」
 顔をあげた彼の眼が、鋭く射るようにジョルジュを見る。
 その意思の強い眼光に、ジョルジュは思わず口を噤んだ。
「何を、考えている…」確かめるように、影三は話しかけていた。「エド、俺は大丈夫。だから、滅多なことは考えるな」
「駄目だ、影三、絶対に駄目だ…君を閉じ込めてでも、絶対に止めるぞ」
「俺が戻らないと、身代わりが死ぬんです」
 震える声。それでも、その眼光は光を失わず「あの男は……あの男の嗜虐性を止める義務がある。俺だけが止められる…命を、無駄に失わせずに済む」
 あの男が自分に意識が向いてさえいれば、他人を巻き込まない。
 そう、君は言うのか。
「なんで」どうして「君が…君がしなくてもいいことだろう…」
 君は自分を犠牲にするんだ。
 嫌なんだ。君が傷つくのが、君があの男に傷つけられるのが。
「エドワード」フッと彼は笑った。少し困ったような表情で「分かってほしいんです…あの男には監視がいる…俺はその立場にいるんだ。それに、
いつか、黒男やきいちゃんに目をつけるかもしれない。その時に俺なら、止められる」
 影三は自分の肩を掴むジョルジュの手をとった。
 そして、その手を両手で包む。
「好きです」影三は言った。「エドの手…大きくて、安心感がある。この手は、人を助ける手ですよ。多くの人が必要としている…」
「影三…」
「医者の手、ですよ」
 確かめるように、肯定するように、彼は呟く。
 だから、だから汚してはいけない。そう、君は私に戒める。
「……卑怯だよ…そんな事を言うな…」
 君のためだったら、私は何だってするのに。
 それなのに。
「俺は、大丈夫です」
 それなのに、彼は笑ってみせる。
「影三?」
 不意に、彼がふわりと抱きついて来た。
 まるで女性のように華奢な体。
「エド、本当にありがとうございます」
 そして、素早く彼はジョルジュに言葉を囁く。
 その言葉に、ジョルジュは耳を疑った。
 驚いて彼の体を話し否定の言葉を言おうとするその唇に、彼の唇が触れる。
 乾いた、薄い、彼の口付けが。
 卑怯だ。君は卑怯だ。拒否は許さないということか。
「お願い、します」
 唇が離れたあと、彼は念を押す。
「分かったよ」ジョルジュは答えた。「必ず、守ろう。安心して」
 君が、それを望むなら。





 

 ランクルで空港まで送っていった。
 彼は笑顔で手を振っていた。
 まるで、まるで、旅発つ旅行者のように。
 彼が搭乗した飛行機は、予定通りに飛び立ってしまった。
 行かせたくは、なかった。
 行かせたくは、なかった。
 治らなかったら。
 そんなことまで、考えてしまう。
 回復しなければ、君を、私の傍において置けたのか。
   


 

『俺が正気を失って、人を傷つけた時、俺を殺して下さい』






君の約束を、実行することがない事を祈るよ。
でも、もしも、そうなったら、





『俺は、貴方に殺してもらえるのなら、本望です』




約束は、必ず守ろう。君が望むのなら。
誰にも、誰にも、君の命を奪わせない。
私が、必ず、私の手で。 




だから、お願いだ。
それまで、自分で自分を殺してまわないで。



私が、君の最期を看取るから。


 





It was an event 20 years ago. 



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