彼の噂を初めて聞いたのはいつだったか。
その事は、覚えてはいない。
だが、
その噂の張本人が、数年前に出会った学生だったのには、正直、驚いた。
また、地獄を、味わいに来たのか。
あの坊やは。





■1話■
  





 メイン通りから外れた裏にあるこのバーは、比較的気に入った店だった。
 薄暗い店内は、声を潜めた客の談笑がBGM変わり。
 その保たれた静寂が煩わしくなく、神経に障ることも無いので、この国へ来たときには立ち寄る事が多かった。。
 仕事も終わり、死神の化身は、カウンター席でスピリタスを嗜んでいた。
 嗜む…いや、96度もの度数を誇るポーランドのウォッカは、最早アルコールそのもの。
 普通なら薄めて口にするのが常識だが、死神はシングルグラスを煽っていた。
 仕事は、正確に言えば、終わったのではない。
 奪われたのだ.
 まあ、それはどうでもいいことだった。
 入るはずだった僅かな金銭は露と消えたが、それは重要な事ではなかった。
 そう、別に重要な事でもないのだ.
 仕事を奪われる事も、自分がこの国に来たのが無駄足であった事も、人殺し呼ばわりされ、白い目で蔑まれる事も。
 総ては、重要な、事ではない。
 かたん。
 椅子を鳴らし、無遠慮に男が隣に座った瞬間、死神の思考は霧散した。
「ギルビー」
 店員に注文してから、その男は死神に向き直る.
「こんなところにいたのか」彼は挑発的な笑みを浮かべた。「てっきり、もう帰ったのかと思っていたよ」
「……。」
無言で、死神は彼を一瞥すると、グラスに口をつけてアルコールを喉へ流し込む.
それを眺めながら、彼は静かに目を伏せて言った。
「あの患者は成功した。あと一ヶ月もすれば、リハビリを開始できる」
「…そう」
 死神は答えた.
 彼のの目の前に、注文したグラスが置かれる.
 それを掴むと、彼は静かにそれに口をつけた。
 今度は、死神がそれを眺める番だった.
 この国の人間とは違う、白の混じる漆黒の髪。
 黄色い肌と、顔を斜めに横切る手術痕。
 その対に位置するは褐色の肌。
 白人の集うこの店の中で、彼は明らかに違う色彩。
 それもその筈。
 この男は日本人。だがブラック・ジャックと名乗る医師なのだ。
 彼の噂を聞いたのはいつだったか。
 アルコールを飲む彼を眺めながら、ふと思った。
 腕のいい外科医がいる。難治性疾患を外科手術で完治させた日本人医師がいる。
 最初は、そんな噂だったか。
「飲まないのか?」
 ちらりと私のグラスをみて、彼は気のないように尋ねる.
 私は、そうだな、と答えてグラスを少しだけ傾けた.
 彼の噂を初めて聞いたのはいつだったか。
 その事は、覚えていない。
 だが、
 彼に初めて出会ったときのことは、よく覚えている。
「レモンハート151プルーフ」
 店員に注文したのは、彼だ.
 151プルーフ、つまり75.5度の南米北部のラムだ。
 この男、日本人のくせに意外と酒がつよい。
 まあ、日本人くせに、というのは偏見であるのは重々承知だ.
「ガキがそんなもん飲むな」
私の言葉に、彼がぴくりと反応する。
「誰がガキだ」
「お前さんだよ、ブラック・ジャック先生」
「ドクターキリコ」彼はギロリと鋭い目つきで睨み付け「あんたの中で、私はいつまで学生なんだ。私もいい加減いい年なんだぞ」
「へえ」
 その反論は的を得ていて感心した.
 そうなのだ。
 初めてこの日本人医師に出会ったのは、彼がまだ学生の時。
 あれから数年経ったはずだが、基本的には変化がみられない。
 少し長めの前髪。
 高めともいえない背丈。
 好戦的な腕っ節。
 挑発的な口調。
 変わったというならば、あの時は初々しいケーシー白衣を着ていたが、今の彼が纏っているのは、正反対とも言える黒衣。
 そして、その瞳。
 黄色人種には珍しく、この男の瞳は鮮やかな深紅。
 そして、その眼差し。
 鋭利と称したくなるその眼光は、学生であった時の彼のそれよりも遥かに凄みを増していた。
 あの時、彼はただの医大生であったはず。
 それが、どうして数年後には裏に身を落とす、闇医者になったのか。
 それも勤勉な民族と皮肉られる日本人が。
 何があったのかなんて知らないが、彼の通り名は確実に世界に広がっている。
「幾つになったの、先生」
 明らかにからかう口調で尋ねた。
それを理解してか、彼は「20代後半」と、曖昧に答える.
「20代後半、、ね」言うほどいい年ではないと思うが「やっぱり、まだガキじゃねえか」
「うるさい!」
 すぐにきゃんきゃん怒鳴るから、ガキなんだよ。
 そんなことを言えば、この日本人医師は殴りかかりかねない。
 日本人にしては短気な男だと思う.
 それにしても、20代後半とは恐れ入った。
 初めて彼を見たのが、数年前。
 噂の天才外科医が来ているという病院を、訪れた時。
 あの時に、ほんの気紛れで奴をわざわざ観に行ったのは、今思えば、何かの符号であったのか。
 天才にあってみたかったのかも、しれない。
 神の手と称される、明らかに偽名を名乗っている医師に、ほんのちょっとの興味を持ったのと。
 その興味は、まだ、人間の命にというものに、希望をもっていたからなのか。
 それとも、みたかったのか。
 神の手から生み出されるという、奇跡を。
 自分の手には、最後まで起こらなかった、奇跡を。

 視線の端に、新たな客の姿がちらりと映った.
 男性3人組だが、すぐに違和感を感じる。
 周囲を軽く見回す、誰かを探す仕草だった。
 その3人に見覚えはなかったので、すぐに興味を無くし、隣の日本人医師をからかおうかと思ったときだった.
 もう一人、店に入店してきた.
 長身で金髪の白人男性。
 ありふれた容貌だったが、それは特に目立った印象でもなかったが、だが、

 キリコの動きが僅かに止まったのを、ブラックジャックは見逃さなかった。

「じゃあな、先生」
 ゆっくりと死神は立ち上がった.
 そして、隣の日本人医師を一度も見ずに、真っ直ぐと店の入り口へと向かう。
 長身で金髪の白人男性がカウンターに近づいてくる前に、自分から近づく。
 あたかも、ここ存在するのは、自分一人だけなのだと告げるように。
 他の者など存在していないかのように。
 死神は目的の男性の目の前に立った。
 白人男性は、目の前に立つ男に、大袈裟なほどの喜びの表情をみせた。
「ああ、ドクタージョルジュ」それは、懐かしい友人をみつけたような声.「やっと見つけたよ。会いたかった」
「お久しぶりです、大佐」
 対して、感情に抑揚のない声で答える。
 社交辞令。
 最早、観念するしか道はなさそうだ。
「車を待たせてある」
 大佐は私の背中に手をかけた。そして促す。「行こう。もう、逃がしはしないから」


 

 音が聞こえる。
 音が蘇る。
 だが、死神の耳には、聞こえない、ふりをする。

 これを運命と呼ぶのなら、なんて安っぽい、筋書きだ。
 死神は、小さく自嘲していた。















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