綺麗な髪の色だと、言った。 伸ばして触れるその指先は赤黒く、血液が凝固してこびり付いたものが。 その指が触れるたびに、何かが凍りつく。 その指が触れるたびに、何かが罅割れる。 指は華奢で美しく、小さい。 その指が触れるたびに、何かが欠落する。 ■2話■ 大佐は私が軍医時代に、大層世話になった男だ。 直接の上官ではなかった。本来なら、顔を合わせる事無く終えることも出来た筈。だが。 「本当に、探したよドクタージョルジュ。今日会えたのが本当に幸運だ」 金髪は色が僅かに抜けて白いものも混じる。 記憶では、大柄な印象があったが、今、贅沢に広いこの車内に座る彼は、その豪奢なシートが窮屈そうに感じるほどに、福与かに。 それが、時間経過を物語るか。 腰周りの肉付きは、平和の証とでも言うべきなのか。 それとも。 「まさか、君があの有名な死神の化身だったとはね」 大袈裟なほど、手を広げて大佐は笑ってみせた。「死神の化身とは、君にまた良く似合う。美しい、通り名だ」 「貴方ほどではありませんよ、大佐」 「スミスで構わないよ、ジョルジュ」 大佐の手が、死神の肩に触れる。 それは明らかに、ある意図を持って。 「君は、精悍になった」大佐は告げる。「その痛みが、君をそうさせたというのなら、私は彼女に感謝しなければなるまい」 「関係は、ありません」 抑揚の無い声で答える。 そう、関係がある筈はない。軍籍を抜けたことも、死神として命を抓むことも、総ては自然と従った事。 自身の流れに沿ったことに過ぎない。 血液で紅蓮に染まるこの手が、白くなる日が来るわけでもない。 ただ、自分は、自分の行為を忘れない為に。 「そうだ。君はいつでもそうだった」 バーを出た後にのせられた車は、随分と長い距離を走っていた。 緩やかなカーブが、徐々に角度を鋭くする。 恐らく、山の奥にでも向かっているのだろうと、推測される。 「背徳を抱く君が美しいのは、きっと私の為だろう」 随分と勝手な台詞。 まだ、あの戦場であったなら、私はその言葉を否定する為に拳を振るっただろうか。 だが、今は、そんな言葉ですら、私を動かすことは無い。 総ては、どうでも、いいことだ。 連れて来られたのは、簡素な部屋だった。 白い壁に大きな窓。 置いてある調度品は、大佐の好みか古くて高価そうなものだった。 歴史のある貴族の屋敷のような、それを真似て作った下品な成金の部屋のような。 場違いなほど大きなソファーを勧められ、素直に腰を下ろす。 大きなソファーとは、下心がまるみえもいいところ。 「ジョルジュ」 大佐も隣に腰を下ろす。そして言った。「君が私の元から逃げ出して5年以上か、私は本当に君をよく探したよ」 懐かしむような声色に滲む、微かな怒りの感情。 逃げた、逃げ出した、か。 「今ごろ、私になんのご命令です、大佐」 「スミスだよ、ジョルジュ」わざわざ言い直す。「分かっているだろう?私には君の力が必要なのは」 「そんなことは、ないでしょう」 「分かっているだろう」 もう一度、言う 大佐の表情から、笑顔が消えた. 男は体ごとことらを向くと、がっしりと両肩を掴まれる。 逃すまいとするかのように、力強く、有無を言わさず。 「分かっていたから、君はジョルジュを捨てたのだろう?なあ、ドクターキリコ」 呼んだ.私のファーストネームをこの男が呼ぶのは、はじめてかもしれない。 「君が、安楽死医になったのは、本当に意外だったよ。だから気がつかなかった。 死神の化身ドクターキリコが、君の事だった事がね」 目の前に近づく顔。その緑色の眼は、妖しい輝きを増していた。 ああ、そうだ。 戦場では、この顔だけを、エメラルドのような気高くも冷たい輝きを、見ていたような気がする。 「私には君が必要なのだよ」 もう一度、大佐は言った.「これ以上、私に卑劣なカードを使わせないで欲しいんだ。 ジョルジュ、私は君を従わせるカードを手にしている」 男の白い指が、死神の頬に触れる. しかし、何も感じない。 表情を崩すことなく、私は男の指を受け入れる. しかし、何も感じない。 感じる事が出来ないかのように。 だが 「妹さんは元気かい」 指先で私の頬を、毛髪を弄びながら、大佐はクスクスと笑った. 「大佐」 「ああ、安心しろ」 指を、静かに放した. そして、緩慢な動作で立ち上がる. 「肉親は最後のカードだ。最初に使うほど、私は馬鹿ではないよ」 不意に、ドアがノックされ、軍服のような服装の男が入室してきた。 「大佐」 男は、すばやく耳打ちをする。 「そうか」 大佐は笑った.すばらしく厭らしい笑みだった.「ジョルジュ、あのとき一緒にいた日本人は、知り合いかい?」 「知り合いというか、、商売敵でね」 「商売敵ね」 卑劣なカード。 少佐は窓際の本棚から、青いプラスチックが表紙のクリアファイルを持ってきた. そして、中身を私の目の前で開き、置いた. 中身は、整然と整理された写真だった。 右のページには、私の妹であるユリの写真。 そして、左側のページには、 「ブラックジャック」少佐が言った.「本名はハザマ クロオ、日本人外科医。随分困難な傷病を手術で回復させ、天才と呼ぶ者もいるそうだね」 「らしいですね」 「まったく、君は素晴らしい」 ぱたん。クリアファイルを閉じる音。 「ブラック・ジャックと知り合いであったとは…君には本当に感謝しなければならないよ」 知り合いという程ではない。 だが、大佐の言葉に含まれる違和感だけは、感じ取る。 この男、BJを必要としているのだろうか、それとも。 だが、敢えて口にはしなかった。口にしたところで、何だというのだ。 ドアの外が俄かに騒がしくなった。 複数の足音と罵声が近づいてきたかと思うと、ぱん、ぱん。二度、乾いた花火のような音が響いた。 それが銃声であることは、すぐに理解した。 ドアが、静かに開く。 敬礼して入室してきたのは、先ほどと同じ軍服を纏った男。 「入れ」 大佐の声を合図に、数人の軍服が、黒衣の男を部屋へ引きずり込んだ。 両脇を抱えられ、頭は完全に垂れている。 頭を保持する体力がないのか、すでに意識を失っているのか。 顔をみなくても、すぐに誰だかは分かった。 時代錯誤な外套に黒衣とも言えるスーツ。 それは、彼の通り名に相応しく、誰も寄せ付けぬ孤高の闇を纏うような。 「私の部下を三人も沈めたとは、大した医者だ」 むんずと、大佐は彼の漆黒と白の混ざる頭髪を掴む。 頭髪を引き顔を上げさせようとした。だが、 その動作よりも早く、彼が動いた。 顔をあげ、ぎらりと紅い瞳で睨み付けたかと、油断していた目の前の少佐の腹を蹴りつけた。 前蹴りを食らわした足を反動で抱え込み、驚く右脇を抱える男の脇腹を蹴り上げた. 「…ぐ!」 思わず男が手を離し、自由になった右手で、左側の男の鳩尾を殴り上げる. 男は鳩尾を押え、声もあげず悶絶した。 大きく息をついて、彼は私を見た。 鋭い眼光。まるで私の身を切り裂くような。 「活きがいいな、ジャップが…!」 大佐の声。彼は短銃を抜いていた。ぎらりと鋭くなる、緑の眼光。 「やめろ!!」 死神が叫ぶのと、乾いた銃声が響いたのは、ほぼ同時だった。 立て続けに、2発、3発、…そこで銃声が止む。 死神が短銃の銃身ごと、そのシリンダーを押さえ込んだからだ。 大佐の私物の短銃は、アンティーク好きなのを反映して5連式のリボルバータイプだったのが幸いしたか。 至近距離からの銃弾。 急所が外れているとはいえ、その銃弾はすべて彼の身体に撃ち込まれていた。 それでも彼は倒れなかった。 歯をぎりぎりと食いしばり、その瞳は、ぎらぎらと鋭く鈍く煌く眼光は揺るがない. 手負いの獣のはずなのに、その闘志は決して折れない。 総毛だつような殺気は、剥き出しの刃のようにぎらりと身を突き刺されそう。 気の弱いものなら、彼の殺気に気を失いそうなほどのその迫力からは、とても彼の職業が医師であるとは思えない. むしろ、それは対極にあるような。 「わかりましたよ、大佐」 銃を押さえつけたまま、私は無感情に告げた。「協力しましょう。私は、貴方の力に」 なるべく大佐が求めるように、納得するように。 別に、この日本人医師がどうなろうと、関係はなかった。 だが巻き込んだのは、己のせい。 死神は大佐の、銃を握る手の甲に優しく口付けた. 満足したような笑顔。 「そう言ってくれると思っていたよ、ドクタージョルジュ」 その言葉を、死神は無視した。 そして、彼の目の前に歩み寄る. 巻き込んだ以上、この男を保護するしかあるまい。 神の手。そう呼ばれる、天才外科医を。 「退け、ブラック・ジャック」 小声で、早口で、日本語で、死神は囁いた.「今ここでお前が死んだら、ただの無意味だ。俺を信用しろ、今は退け」 「…キリ…」 「すまない」 死神は彼の左肩に手をおき、手刀を頚動脈に打ち込んだ.。 普段からは考えられないほど、簡単に彼は意識を失った. 次頁